143 川魚のムニエル、ハーブのタルタルソース添えですわ
荒れ狂っていた嵐が完全に過ぎ去り、森が静寂を取り戻した夜――。
カエラムとコルネリアは、冷え切った身体を温めるために、順番に診療所の奥にある温泉へと向かった。
先に入浴を済ませ、寝間着に着替えていたコルネリアがキッチンスペースでお茶を淹れていると、後から湯浴みを終えたカエラムが姿を現した。
彼の翡翠色の髪はまだたっぷりと水分を含んでおり、毛先から水滴が滑り落ちて、首筋から鎖骨のあたりへと冷たい軌跡を描いている。
「先生、髪が濡れたままですわ。風邪を引いてしまいますから、こちらへ座ってくださいな。私が乾かして差し上げます」
コルネリアが円卓の椅子を引いて促すと、カエラムは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに口角を上げて大人しく椅子へと腰を下ろした。
コルネリアは彼の背後に立ち、自身の両手のひらを彼の濡れた髪のすぐ近くへとかざす。
そして意識を集中させ、魔力を細かくコントロールしながら練り上げていった。
以前、洗ったあとのコユキを乾かす際に習得した、温度と風量を繊細に調整する温風の魔法である。
手のひらから生み出された心地よい温かさを持った風が、カエラムの髪を優しく揺らす。
コルネリアの指先が、風の通り道を作るようにして彼の髪の間に滑り込み、頭皮を傷つけないよう丁寧に撫でさすっていく。
「……とても心地よい風ですね。あなたの魔力は、本当に温かくて優しい」
カエラムはアンバーの瞳をうっとりと細め、全身の力を抜いて彼女の指先の感触に身を委ねていた。
大好きな人の髪に触れ、その無防備な表情を上から見つめていると、コルネリアの胸の奥で甘い感情が静かに膨らんでいく。
温風に混ざってふわりと漂う、彼と同じ石鹸の清廉な香りが、二人の間の距離をさらに親密なものへと変えていった。
――すっかり髪が乾ききったところで、二人は夕食の準備に取り掛かる。
まずは、足元で夕食を待ちわびているコユキのご飯である。
食材は昨日川辺で釣り上げ、その日のうちにカエラムの手によって微細な骨の一本に至るまで完璧に取り除かれ、下処理を済ませていた川魚だ。
コルネリアはその白い身を小鍋でふっくらと茹で上げ、細かく刻んだ野菜としっかりと混ぜ合わせて器に盛った。
コユキの目の前に置くと、短い尻尾を激しく振り回し、顔を皿に突っ込んで勢いよく中身を平らげていく。
「コユキもすっかりお腹が空いていたのですね。さて、私たちの分も作りましょうか」
二人の夕食の主役は、同じく川魚を使ったムニエルであった。
コルネリアは、骨を取り除いた川魚の切り身に軽く塩を振り、表面に小麦粉を薄く均一に纏わせる。
厚手の鉄鍋にたっぷりのバターを落として火にかけると、バターが熱で溶け出し、細かな泡を立てながら極上の香りをキッチンスペース全体に充満させた。
そこへ切り身を静かに滑り込ませる。
魚の皮目が焼ける香ばしい音が室内に響き渡る。
焦がさないよう火加減を調整し、スプーンで溶けたバターを何度も魚の表面に回しかけながら、外側は香ばしく、内側はふっくらとした状態になるよう丁寧に火を通していく。
付け合わせには、ズッキーニと新玉ねぎを魚の横で一緒にソテーし、甘みを引き出した。
焼き上がったムニエルを皿に盛り付け、その上から特製のタルタルソースをたっぷりと乗せる。
これは、茹でた卵に菜園の新鮮なハーブを数種類刻んで混ぜ込み、酸味を効かせた爽やかな仕上がりのソースだ。
「川魚のムニエル、ハーブのタルタルソース添えですわ。熱いうちにいただきましょう」
円卓に向かい合って座り、胸の前で手を合わせてから食事を始める。
ナイフを入れると、香ばしく焼けた皮が心地よい感触と共に切れ、中から湯気を立てるふんわりとした身が顔を出した。
それをソースに絡めて口へ運ぶ。
「……見事な焼き加減です。バターの芳醇なコクと魚の旨味が口いっぱいに広がり、そこへハーブの爽やかな香りとソースの酸味が完璧な調和をもたらしています。川魚特有の淡白な味わいが、これほどまでに濃厚で華やかな一皿に変わるとは」
「本当ですわ。お野菜のソテーもバターの風味が染み込んで、とても甘く美味しく仕上がりました」
外の涼しい夜風が窓から吹き込む中、二人は大自然の恵みと濃厚なバターの風味を心ゆくまで堪能した。
――食後の片付けを終え、ランプの火を小さく落とした居住区画。
すき間なくくっつけられた二つの寝台に並んで腰掛け、コルネリアは膝の上で丸くなっているコユキの雪色の毛並みを優しく撫でていた。
満ち足りた表情でまどろんでいるコユキを見つめながら、コルネリアはふと、日中に考えていた素朴な疑問を隣に座るカエラムへと投げかけた。
「先生。私、あの嵐が来るまでは雷の音がとても苦手でしたけれど……先生には、何か苦手なものはないのですか?」
「私に、ですか?」
「ええ。先生は私と出会った頃、ご自身には家事などの生活能力が全くないとおっしゃっていましたけれど……私と一緒に暮らし始めてからは、お料理もお魚を捌くのもあっという間に上達されて、今では何でも器用にこなしてしまわれます。もちろん、お医者様としてのお仕事も完璧ですし……だからこそ、本当に手こずるような苦手なものなんてあるのかしら、と気になりましたの」
コルネリアがペリドットの瞳を輝かせて尋ねると、カエラムは一瞬だけ言葉に詰まり、少し気まずそうに視線を彷徨わせた。
そして、小さく咳払いをしてから、どこか言い訳がましいような声で白状した。
「……完璧、などではありませんよ。私にも、どうしても克服できない苦手な分野があります。実は……衣服の裁縫が、どうしても上手くできないのです」
「まあ。裁縫、ですか?」
コルネリアが驚いて目を丸くする。
「お医者様の手元は、とても繊細で器用だと思っておりましたけれど……」
「ええ、医療の縫合であれば、どれほど複雑に裂けた傷口や細い血管であっても、正確に繋ぎ合わせる自信があります。しかし……」
カエラムは深い溜息を漏らし、両手で自身の顔を覆い隠すような仕草を見せた。
「いざ、衣服の取れたボタンを付け直したり、布の破れを直そうとすると……なぜか糸が複雑に絡まり合い、布には不自然なシワが寄り、修繕する前よりも悲惨な状態になってしまうのです。あれは、医療の針とは全く別の、悪意のある魔法がかかっているとしか思えません」
「ふふっ……悪意のある魔法、ですか」
どんな難病の治療にも立ち向かう天才医師が、小さなボタン一つに悪戦苦闘している姿を想像し、コルネリアは愛おしさが込み上げて楽しげに笑い声を漏らした。
「笑い事ではありませんよ。だからこそ、あなたが私のために一生懸命に作ってくれたあのメガネケースは、私にとって本当に奇跡のような宝物なのです」
カエラムが真面目な顔でそう告げると、コルネリアは笑いを収め、頬をりんごのように赤く染めて照れくさそうに微笑んだ。
「……そういうことでしたら、これからの針仕事はすべて私にお任せくださいませ。先生の分まで、私が縫って差し上げますわ」
「それは頼もしい。私の専属の仕立て屋さんですね」
カエラムは優しく微笑み返し、彼女の肩を抱き寄せて、ほんの少しだけ顔を近づけた。
「……私の苦手を笑ったお返しです。おやすみの口づけをいただいてもよろしいですか?」
「もう、先生ったら」
甘い声で囁かれ、コルネリアは目を閉じて彼の唇を受け入れようとした。
――しかし、二人は無意識のうちに、足元で眠っているはずの小さな家族の存在を思い出し、揃って視線を下へと向けた。
するとそこには、すでに完璧な体勢でスタンバイしているコユキの姿があった。
コユキは自身の両前足を器用に交差させて目をしっかりと覆い隠し、「どうぞお気になさらず。私は何も見ておりませんよ」という見事な見ないふりのポーズを決め、微動だにせず横たわっていたのである。
「……本当に、空気が読める賢いお利口さんですね」
「ええ。でも……毎晩このように気を遣わせてしまうのは、少しだけ複雑な気持ちになりますわね」
二人は声を殺してくすくすと笑い合い、小さな家族の健気な優しさに心を温めながら、再び互いへと顔を向けた。
窓の外からは、雨上がりの森を吹き抜ける涼やかな夜風の音が聞こえてくる。
愛する人の意外な弱点を知り、これまでの彼の努力をさらに愛おしく思いながら――。
二人の唇は静かに重なり合い、森の診療所の夜は、どこまでも甘やかな幸福に包まれて更けていくのだった。




