141 落とし卵のお味噌汁と、おにぎりですわ
深い眠りから意識が浮上するよりも先に、屋根を激しく打ち据える暴力的な音がコルネリアの鼓膜を叩いた。
ゆっくりとペリドットの瞳を開けると、本来ならば朝の光が差し込んでいるはずの窓の外は、厚く重い鉛色の雲に完全に覆い尽くされ、まるでまだ夜中であるかのように室内は真っ暗だった。
風が木々を大きく揺らす不気味な音と、容赦のない雨音。
それは、間違いなく激しい嵐が到来していることを告げていた。
「……ひどい雨ですわ」
寝台の上で身体を起こし、コルネリアは不安げに窓の方へと視線を向けた。
かつて王都の伯爵邸にいた頃、嵐の日は決まって窓のない暗い部屋に閉じ込められていた彼女にとって、この不穏な空気は過去の冷たい記憶を呼び起こすトリガーでもある。
彼女の肩が微かに強張った――その時。
「おや……今日は、プリンの日ですかね」
隣の寝台で目を覚ましたカエラムが、起き抜けの少し掠れた声で、穏やかにそう告げた。
彼は丸メガネをかけながら身体を起こし、アンバーの瞳を優しく和らげてコルネリアを見つめている。
「プリンの、日……?」
コルネリアが目を瞬かせると、カエラムは口角を上げてこくりと頷いた。
「ええ。以前、雷の日はとびきり甘いものを食べる特別な日だという取り決めを交わしたではありませんか。この雨の勢いだと、遠からず雷も鳴り出すでしょうから」
彼の言葉に、コルネリアの脳裏にあの日の温かい記憶が鮮明に蘇った。
雷鳴に怯えてうずくまる彼女を力強く抱きしめ、音と光を遮ってくれたこと。
そして、恐怖の記憶を塗り替えるために、彼が一生懸命に甘くて滑らかなプリンを作ってくれたこと。
「……ふふっ、そうでしたわね。すっかり忘れておりました」
過去のトラウマを引きずりそうになっていた彼女の不安は、彼の一言によって完全に消え去った。
コルネリアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、嬉しそうに柔らかな笑顔を咲かせた。
嵐のため、今日は外での作業は中止し、室内で一日を過ごすことになった。
身支度を整えた二人は、ランプの明かりを頼りにキッチンスペースへと向かう。
まずは、足元で尻尾を振って待っているコユキの朝ごはんだ。
コルネリアは昨日の夕食で余っていた川魚の身を丁寧にほぐし、茹でた野菜と混ぜ合わせて器に盛った。
コユキは「ワフッ!」と嬉しそうな声を上げ、夢中になってそれを平らげていく。
続いて、二人の朝食作りである。
コルネリアは、昨晩の夕食でわざと多めに炊いておいた川魚の炊き込みご飯を土鍋から取り出し、手に少量の塩をつけて、ふっくらとした温かいおにぎりへと握り直した。
魚の極上の出汁と脂が染み込んだご飯は、冷めてもなお驚くほどの旨味を内包している。
おにぎりに合わせるのは、身体の芯から温まるお味噌汁だ。
小鍋で丁寧に一番出汁を取り、そこへ瑞々しい春キャベツのざく切りと、甘みの強い新玉ねぎをたっぷりと入れる。
野菜が柔らかく煮えたところで味噌を溶き入れ、最後に卵をそっと落とし入れた。
「落とし卵のお味噌汁と、おにぎりですわ。熱いうちにいただきましょう」
屋根を叩く激しい雨音を背に聞きながら、二人は円卓に向かい合って座り、手を合わせた。
「いただきます」
熱々のお味噌汁を一口飲むと、春キャベツと新玉ねぎの強い甘みが、出汁の効いたお味噌の風味と完璧に溶け合い、冷えた身体にじんわりと染み渡っていく。
そこへ、少しだけ火の通ったとろとろの半熟卵を崩し、魚の旨味が凝縮された炊き込みご飯のおにぎりと共に頬張れば、まさに至福の味わいであった。
「……やはり、この炊き込みご飯は絶品ですね。甘い野菜がたっぷり入ったお味噌汁とも非常によく合います」
「本当ですわね。雨で外に出られなくても、こうして先生と一緒に温かいお食事ができるだけで、とても贅沢な気分になれますわ」
朝食を終えた後、カエラムは分厚い雨避けの外套を羽織り、裏庭の馬小屋へと向かった。
今日は放牧ができないため、ファノーネには丁寧に乾燥させた良質な牧草をたっぷりと与える。
そして、昨日川辺から少しだけ持ち帰っていた甘いルージャの実を、特別なおやつとして二粒だけ手のひらに乗せて差し出した。
ファノーネは嬉しそうにいななき、ボリボリと音を立ててそれを咀嚼した。
カエラムが濡れた外套を脱いで診療所内に戻ると、そこからは室内でできる仕事の時間だ。
二人は円卓に座り、採取してあった薬草の種類ごとの仕分けや、細かなカルテの整理、そして不足している医療器具の確認などを、穏やかな沈黙の中で進めていった。
外の嵐は一向に収まる気配を見せず、むしろ風雨の勢いは増していくばかりである。
そして――。
窓の木戸の隙間から、室内を真っ白に染め上げるような強烈な閃光が走った。
直後、空を引き裂き、大気を激しく震わせるような凄まじい雷鳴が、診療所のすぐ近くで轟いた。
「……っ」
突然の爆音に、コルネリアは驚いてビクッと肩を跳ねさせた。
しかし、彼女はかつてのように蒼白な顔で耳を塞ぎ、床にうずくまるようなことはしなかった。
彼女はすぐさまカエラムの方へと視線を向け――そして、花が綻ぶように、にっこりと嬉しそうに微笑んだのである。
「鳴りましたわね、先生」
「ええ。随分と大きな音が鳴りましたね」
カエラムもまた、トラウマを完全に克服し、笑顔を見せてくれた彼女の成長を眩しそうに見つめながら、深く温かい声で応じた。
「さあ、約束のお時間ですわ。あのとびきり美味しいプリンの材料を準備いたしましょう!」
コルネリアは弾むような足取りで立ち上がり、キッチンスペースへと向かった。
激しい雨と雷鳴が吹き荒れる恐ろしい嵐の日は、今や彼女にとって、大好きな人と甘いお菓子を作り、特別な時間を楽しむための幸福な合図へと完全に塗り替えられていた。
森の診療所の温かい灯りの下、甘く香ばしいカラメルの匂いが、二人の穏やかな空間を満たしていく。




