140 コユキったら、わざわざ見ないふりをしてくれていますわ
美味しい川魚の炊き込みご飯とよく冷えた白ワインをすっかり平らげ、心も身体も幸福感で満たされた後――。
食器の片付けを協力して終えたカエラムとコルネリアは、キッチンスペースのランプの火を小さく落とし、並んでゆっくりと居住区画へと足を踏み入れた。
そこには、くっつけられた二つの寝台が置かれている。
昼間のうちにコルネリアが外に干しておいたシーツは、初夏の強い日差しをたっぷりと浴びてふかふかに乾き、太陽の温かな匂いを微かに残していた。
開け放たれた窓枠からは熱を持った空気を冷ますような、初夏の夜特有の心地よい風が静かに吹き込んでいる。
白ワインのアルコールが少しだけ回っているせいか、コルネリアの白い頬はりんごのように愛らしい赤みを帯びていた。
ペリドットの瞳もどこか潤んでとろんとしており、普段の貴族令嬢らしい凛とした立ち振る舞いとは違う、年相応の隙のある可愛らしさが自然と滲み出ている。
カエラムもまた、アンバーの瞳にお酒の生み出す特有の柔らかな熱を宿しながら、寝台の端へとゆっくりと腰を下ろした。
足元では、ご飯を腹いっぱい食べて大満足のコユキが、丸い毛玉のようになっていち早く気持ちよさそうな小さな寝息を立て始めている。
「……ふぅ。本当に、素晴らしい一日でしたね」
カエラムが充実感に満ちた息を吐き出しながら、自身の鼻梁に架かっていた丸メガネをゆっくりと外した。
そして、傍らのサイドテーブルに置かれていた、以前コルネリアがカエラムのために一生懸命手作りしたメガネケースを手に取る。
「先生、そのメガネケース……もう随分と布がくたびれてきてしまいましたわ。私、今度はもっと良い革の端切れを手に入れて、新しくて綺麗なものを作り直しますね。それまで、どうか我慢してくださいませ」
コルネリアが少しだけ恥ずかしそうに頬を掻きながら言うと、カエラムはメガネケースの表面にある自身の似顔絵の刺繍を愛おしそうに指の腹で撫でた。
「何を仰るのですか、ネリー。このケースは、あなたが私のために指先に何度も針を刺しながら作ってくれた世界でたった一つの宝物です。布が少し柔らかくなったのは、私の手に馴染んでくれた証拠ですよ。私は、一生これを使いたいと思っているくらいなのですから」
「まぁ……先生ったら、大袈裟ですわ」
カエラムの甘い言葉に、コルネリアは照れ隠しのようにクスッと笑った。
彼はメガネケースの中に丸メガネをそっとしまい込み、テーブルの上に置いた。
――丸メガネを外し、素顔になったカエラム。
前髪の隙間から覗く、長く美しい睫毛に縁取られたアンバーの瞳。
普段の理知的な雰囲気から一転して、素顔の彼はどこか無防備で、大人の男性特有の色気がはっきりと表に出ている。
毎日見ているはずのその素顔に、コルネリアは白ワインの酔いも手伝って、胸の奥がトクン、と大きく跳ねるのを感じた。
「……先生」
コルネリアが少しだけ上ずった、甘い声でカエラムを呼ぶ。
そして、隣に座る彼の腕に自身の身体をそっと引き寄せるようにして、肩と肩が触れ合う距離で寄り添った。
「今日の川釣り、本当に……本当に楽しかったですわ。私、理不尽に王都のお家を追い出されてから、こんな風に大自然の中で誰かと一緒に笑って、美味しいものを食べて、お出かけができるなんて思いもしませんでしたの」
コルネリアは、窓の外の暗闇を見つめながら、ぽつりと言葉を紡いだ。
「あの絶望の中で、先生が私を拾い上げ、この温かい場所に置いてくださったから……今の私は、間違いなく世界で一番幸せです」
彼女の飾らない、心からの真っ直ぐな感謝の言葉――。
カエラムは胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、どうしようもないほどの愛おしさを覚え、優しい眼差しで彼女を見つめ返した。
「ネリー。私の方こそ、あなたに何度感謝してもしきれないのですよ」
カエラムは静かに首を振り、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「あなたという光がこの診療所にやってきてくれたから、ただ淡々と息をして、生きているだけだった私の味気ない毎日は、これほどまでに色鮮やかで、温かいものに変わったのです。一人で食べる食事の味気なさも、夜の静寂の冷たさも、あなたがすべて忘れさせてくれた……私にとっても、今日は生涯忘れることのない、最高の休日でした」
互いを見つめ合う二人の距離が、引力に導かれるようにして自然と近づいていく。
コルネリアは少しだけ緊張に胸を高鳴らせながら、膝の上に置いていた両手をぎゅっと握りしめ、ほんの少しだけ背伸びをした。
そして、カエラムの頬の輪郭に、自身の唇をチュッと愛らしい音を立ててそっと押し当てた。
「……今日という日の、お礼ですわ」
頬に触れたあまりにも優しい感触に、カエラムは一瞬目を見張った。
しかし、すぐに顔全体にとろけるような微笑みを咲かせた。
「ずるいですね、そのような不意打ちは……では、私からも、おやすみの挨拶を」
カエラムは彼女の肩を大きな手で優しく包み込み、引き寄せると、今度は彼女のほんのりと熱を持った柔らかい頬へと、自身の唇を愛おしさを全て込めるようにして重ね合わせた。
「おやすみなさい、私の愛しいネリー。良い夢を」
「ふふっ……おやすみなさいませ、先生」
触れ合った頬から伝わる互いの熱と、白ワインの甘い香りに、二人は再び顔を真っ赤にして照れくさそうに微笑み合った。
ふと、朝のハプニング――コユキによる熱烈なガン見があったことを思い出し、二人は足元の小さな白い影へと視線を向けた。
すると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
先ほどまで寝息を立てていたはずのコユキは、いつの間にか小さな前足を器用に顔の前に交差させ、自身のマリンブルーの瞳を完全に覆い隠すようにして、あからさまに「私は何も見ていませんよ。お気になさらず」という、大人の気遣いに満ちた見ないふりの体勢を取っていたのである。
「まぁ……! コユキったら、わざわざ見ないふりをしてくれていますわ」
「……はは、本当に賢い子ですね。これなら、毎晩安心してあなたを抱きしめることができそうです」
新しい家族のあまりにも健気で愛らしい気遣いに、カエラムとコルネリアは顔を見合わせ、夜の静寂を破らないように声を殺して、くすくすと楽しそうに笑い合った。
窓の外では、風のない穏やかな初夏の森を、淡いホタルの光がいくつか通り抜けていく。
奇跡のような大漁がもたらした豊かな大自然の恵みと、白ワインの心地よい陶酔感、そして互いの頬に残る甘い口づけの余韻に優しく包まれながら――。
森の診療所の愛に満ちた寝室で、二人は隙間なくぴったりと身を寄せ合い、コユキの健気な寝息と共に幸せな眠りの中へと落ちていくのだった。
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