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14 命が受け継がれていく光景は、何よりも美しいものです

 過酷なまでの熱気で森を支配していた夏の盛りが過ぎ去り、朝夕の風にはわずかに涼やかな秋の気配が混じり始めていた。

 木々の葉はまだ深い緑色を保っているものの、吹き抜ける風が運んでくる空気は以前よりも軽く、乾いた土の匂いを感じさせるようになっている。


 日の光が真上から差し込む昼食の時間。

 診療所のキッチンスペースでは、コルネリアが腕を振るって温かな食事の準備を進めていた。


 本日の主な食材は、数日前に街の患者からお礼としていただいた、塩漬けにされた立派な豚肉の塊である。

 コルネリアはそれを贅沢に厚く切り分け、熱した鉄の小鍋で火を通していく。

 肉の脂が熱に溶け出し、香ばしい匂いが部屋全体に満ちていった。


 肉の表面に美しい焼き色がついたところで、新鮮な卵を割り入れる。

 卵白が熱に触れて瞬時に白く変わり、中央の卵黄は半熟の鮮やかな黄色のまま保たれるように、慎重に火加減を調整した。


 同時に用意していたのは、秋の訪れを先取りするような、黄色い南瓜のスープである。

 柔らかく煮崩した南瓜を網で濾してなめらかな状態にし、高価な牛乳を加えて弱火で温める。


 こんがりと焼き上げた麦のパンの上に、厚切りの肉と半熟の卵を乗せ、スープの入った木の器とともに食卓へ並べる。


「カエラム先生、昼食の準備が整いましたよ」


 コルネリアが声をかけると、書物に向かっていたカエラムが顔を上げ、深い満足の息を吐きながら席についた。


「この香りを嗅ぐだけで、一日の疲れが消え去っていくようです。君の料理は、常に私の心と身体を満たす最高の処方箋ですね」


 カエラムは両手を合わせ、パンの上に乗った卵を崩して肉とともに口へ運んだ。

 濃厚な卵の味わいと、塩気の効いた肉の旨味が絶妙に調和し、彼の瞳が幸福に細められる。


 かつては食事をとることすら忘れ、やせ細っていた彼の横顔には、今や健康的な血の気が通い、大人の男性らしい精悍せいかんさが戻ってきていた。

 その変化を見つめるだけで、コルネリアの心にも温かな充実感が広がっていく。


 二人が和やかな食事を終え、コルネリアが水を張った桶で木の器を洗っていた時のこと――。

 入り口の重い木の扉から、遠慮がちな打音が響いた。

 カエラムが立ち上がり、かんぬきを外して扉を開け放つ。


 そこに立っていたのは、以前、群れの仲間を庇って腕に深い裂傷を負い、この診療所で治療を受けたラットマンの青年――トロンだった。


 灰色の短い体毛に覆われた身体、丸い耳と長い尻尾。

 しかし、本日の彼は怪我をしているわけではなかった。

 彼は、同じような灰色の毛並みを持つ小柄なラットマンの女性を、自らの両腕で抱きかかえるようにして支えていたのだ。


「カエラム先生……ご無沙汰しております」


 トロンは顔を歪め、今にも泣き出しそうな悲痛な声で懇願した。


「人間の街の医者は、やはり我々獣人を診てはくれませんでした。妻のキャロラインの具合がひどく悪く……また先生にすがりつくしかなくて……」


 彼の腕の中で支えられているキャロラインは、本来であれば艶やかであるはずの毛並みがひどく荒れ、呼吸も浅く、自力で立つことすら困難な様子だった。

 獣人というだけで迫害され、病に倒れても助けを求める場所がない。

 その残酷な現実に、コルネリアは胸を痛めた。


「さあ、遠慮なさらず中へ入ってください」


 コルネリアが柔らかな微笑みを向けて招き入れると、トロンは弾かれたように顔を上げ、深い感謝の言葉を繰り返しながら診療所の中へ足を踏み入れた。


 カエラムは瞬時に医師としての鋭い眼差しに切り替わり、キャロラインを寝台に横たわらせた。


「どのような症状が出ていますか? できるだけ詳しく教えてください」


 カエラムの落ち着いた問いかけに、キャロラインはかすれた声で答えた。


「数日前から、まったく食事が喉を通らないのです。強い匂いを嗅ぐと酷い吐き気に襲われ、立ち上がろうとすると視界が暗くなって、立っていられません。身体も常に重くて……」


「先生、もしかして、恐ろしい流行り病か何かでしょうか? どうか、どうか妻を助けてください」


 妻の手を両手で握り締めながら、トロンが恐怖に震える声で叫んだ。

 カエラムは無言のまま、キャロラインの手首に三本の指を当て、脈の強さと速さを確認する。

 次に、まぶたの裏の血色を見て、腹部の張りを丁寧に確認していった。


 診療所の中に、重く冷たい緊張感が張り詰める。

 トロンは最悪の事態を想像しているのか、灰色の毛に覆われた身体を小刻みに震わせていた。


 やがて、カエラムはキャロラインの手首から指を離した。

 彼の顔には、春の陽だまりのように温かい微笑みが浮かんでいる。


「安心してください、トロンさん。これは病ではありませんよ」


「え……? 病ではない、とは……」


「おめでとうございます。キャロラインさんの身体には、新しい命が宿っています。今の症状は、母親の身体が新しい命を育むために変化している証拠なのです」


 カエラムから告げられた事実が理解できるまで、ラットマンの夫婦には数秒の時間を要した。

 言葉の意味が彼らの頭の中で結像した瞬間――キャロラインの丸い目が見開かれ、彼女は自らの腹部を両手で大切に覆った。


 トロンは信じられないものを見るようにカエラムと妻を交互に見つめ、やがて、その目から大粒の涙がとめどなく零れ落ち始めた。


「新しい、命……俺たちの間に、子供が……!」


「あなたに似て、きっと優しい子になりますよ」


 キャロラインもまた涙を流し、二人は種族の迫害や生活の苦難をすべて忘れたように、互いの身体を強く抱きしめ合った。

 その美しい光景を前にして、コルネリアもまた、視界が涙で滲むのを止めることができなかった。


 人間社会から弾き出された彼らにも、等しく命の祝福は訪れる。

 その事実が、彼女の心をひどく打ち震わせた。


「キャロラインさん、食事の匂いが辛い時期は、無理に食べる必要はありません。口当たりの良い果物や、冷ました汁物を少しずつ飲んでください」


 カエラムはそう説明しながら、棚から数種類の乾燥させた葉を取り出した。


「これは、胃のむかつきを抑える効果のある香草です。お湯で煮出して飲めば、少しは気分が楽になるはずです。コルネリアさん、包みをお願いできますか」


「はい。すぐにご用意いたします」


 コルネリアは溢れる涙を衣服の袖で拭い、香草を紙に包んでトロンへと手渡した。


「トロンさん、キャロラインさん。本当におめでとうございます。お二人なら、必ず素晴らしいご両親になれますわ」


「先生、コルネリアさん。本当に、何と御礼を申し上げればよいか……俺たち、絶対にこの命を大切に育ててみせます」


 トロンは何度も深く頭を下げ、キャロラインを大切に支えながら、夕暮れの森へと帰っていった。

 二人の背中が見えなくなるまで、カエラムとコルネリアは並んで扉の前に立ち、温かな笑顔で見送りを続けた。


 ――その日の夜。

 空を覆う雲は一つもなく、空気が澄み渡り始めた夏の終わりの夜空には、数え切れないほどの無数の星々が輝いていた。


 少し冷え込み始めた夜風を感じながら、カエラムとコルネリアは診療所の外に並んで立ち、その壮大な星空を見上げていた。


「……新しい命が生まれるというのは、本当に奇跡のような出来事ですね」


 コルネリアが夜空から視線を下ろし、隣に立つカエラムへと語りかけた。


「今日のお二人を見ていて、私まで幸福な気持ちで満たされました。命が受け継がれていく光景は、何よりも美しいものです」


「ええ。本当にその通りです」


 カエラムは静かに同意し、自身の大きな手を見つめた。


「私はかつて、王都の冷たい権力の中で、多くの命が理不尽に失われるのを見てきました。自分を育ててくれた母の命さえ救うことができず、己の医術を、そして自分の存在意義そのものを呪ったこともありました」


 彼の声には、過去の悲哀の欠片がわずかに混じっていた。

 しかし、その後に紡がれた言葉には、確かな力強さが宿っていた。


「ですが今日、あの夫婦の間に宿った小さな命の灯火を見て……私は初めて、自分がこれまで培ってきた技術が、失われる命を数えるためのものではなく、これから生まれてくる未来を繋ぐために存在しているのだと実感できたのです」


 カエラムは顔を上げ、丸メガネの奥のアンバーの瞳で、真っ直ぐにコルネリアを見つめた。


「そして、私がふたたびそのように前を向けるようになったのは、他でもない、あなたがこの冷え切っていた診療所に温かな光をもたらしてくれたからです。君がいてくれるおかげで、私はもう過去に囚われることなく、未来を見据えることができる」


「先生……」


「私の人生に光を与えてくれて、本当にありがとう、コルネリアさん」


 カエラムからの、嘘偽りのない深い感謝と親愛の言葉。

 コルネリアの胸の奥で、甘く、そして心地よい熱が広がり、全身の血を巡っていくのを感じた。


 彼女はペリドットの瞳に決意の光を宿し、星明かりの下でカエラムに微笑み返した。


「私の方こそ、居場所を失ったあの日、先生に命と未来を与えていただきました……先生。これからもずっと、先生の隣で、多くの命と未来を見守らせてください」


 それは、単なる雇用契約を超えた、彼女自身の生涯を懸けた誓いの言葉だった。

 カエラムは驚いたようにわずかに目を見張った後、すべてを包み込むような深い慈愛の笑みを浮かべて頷いた。


「ええ。こちらこそ、一生のお願いです。私の生涯の助手でいてください」


 満天の星空の下、夏の終わりの涼やかな風が二人の間を通り抜けていく。


 身に覚えのない罪で故郷を追われた令嬢と、過去の絶望に囚われていた名医。

 孤独だった二人の魂は、日々の温かな食卓を囲み、互いの過去の傷を優しく分かち合うことで、もう誰にも引き裂くことのできない強固な絆へと結実していた。

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