136 いつも魔法のように食卓を豊かにしてくれますね
森の木々に囲まれた診療所に、初夏の午後の気怠げな空気が漂っていた頃。
外から聞こえてきたリズミカルな足音と共に、分厚い木の扉が元気よく押し開かれた。
「こんにちはアル! カエラム先生、お姉ちゃん、元気だったカ?」
現れたのは、巨大な荷袋を背負い、銀色の髪をおだんご状に結い上げた異国の行商人――ユエフーだった。
彼女は額に微かに汗を滲ませながらも、スフェーンの瞳をきらきらと輝かせ、なぜか誇らしげに胸を張って円卓の前へと進み出た。
「聞いてほしいヨ。前回ここへ来る時は三日三晩も迷ったアルが……今回はなんと、たったの二日で辿り着くことができたネ! 私の商人の勘も、ついに研ぎ澄まされてきたヨロシ!」
――たった二日。
全く誇れるような短縮ではないのだが、本人が至極満足げにふんすっと鼻を鳴らすので、カエラムとコルネリアは顔を見合わせて思わず苦笑いをこぼした。
「いらっしゃい、ユエフーさん。無事に着いて何よりです」
「冷たいお水とお茶菓子をお持ちしますね。でも、本当に気をつけてください。実は今日の午前中、すぐ近くの川辺に巨大なワニの魔物、ガブロスが出現したのです。この森はやはり危険が潜んでいますわ」
コルネリアが心配そうに忠告しながらグラスの水を渡すと、ユエフーは水を一気に飲み干し、「ぷはぁ!」と息を吐き出して片手を腰に当てた。
「ガブロスネ! でも大丈夫アル。私はこれでも、色んな国を渡り歩いてきた歴戦の商人ヨ。道中で出くわしたドブネズミの魔物、チュロットの群れとも何度も応戦して打ち勝ってきたアル!」
そう言うとユエフーは、シュッ! という鋭い呼気と共に、両手を素早く交差させ、低い姿勢から片足を高く蹴り上げるという、異国特有のキレのある武闘の構えを披露した。
その小さな体躯に似合わぬ無駄のない身のこなしに、彼女がただ迷子になるだけの行商人ではないという確かな逞しさが垣間見えた。
「実は今日、ユーズヴェンドの街での商売がまた大成功して、今は近くの村へ向かっている途中アル。お世話になっている恩人たちに、新しい調味料を持ってきたヨ!」
ユエフーは背中の荷袋から、厳重に封をされた黒い小さな壺を取り出して円卓に置いた。
蓋を開けると、大豆を発酵させたような独特の深みのある香りと、芳醇な甘い匂いが立ち上った。
「これは甜麺醤という、甘みとコクが最高の調味料ネ! 豚肉と、今の季節ならキャベツやピーマンと一緒に高温の油で炒め合わせると、もうほっぺたが落ちるくらい最高に美味しいおかずになるアルよ!」
「まあ……! とても美味しそうな香りですわ。今夜はさっそく、そのお料理を作ってみますね」
コルネリアがペリドットの瞳を輝かせて壺を受け取ると、ユエフーは満足げに頷いた。
「じゃあ、私は日が暮れる前に村へ向かうヨ!」
再び荷袋を背負い上げたユエフーに対し、カエラムは地面の土に杖で簡単な地図を描き、「ここから真っ直ぐ東へ進み、大きな切り株を右です」と丁寧に道を教え込んだ。
「分かったアル! 完璧ネ!」
元気よく診療所を飛び出していったユエフー。
――しかし、彼女が自信満々に歩き出そうとしたのは、教えられた東とは完全に真逆の、険しい西の獣道だった。
「あ、ユエフーさん! そっちは逆です!」
「待ちなさい、そちらは深い谷底へ続く道です!」
毎度お馴染みとなった光景に、カエラムとコルネリアは慌てて彼女の背中を掴んで正しい方角へと軌道修正させた。
「あれれ?」と首を傾げながらも、危なっかしく、しかしどこまでも力強い足取りで進んでいく小さな行商人の背中を、二人はいつまでも見えなくなるまで見守り続けた。
――そして、日が沈み、診療所にランプの温かな灯りが灯る夕食時。
キッチンスペースでは、強火で熱せられた厚手の鉄鍋から猛烈に食欲を刺激する香ばしい匂いが立ち上っていた。
コルネリアは、ユエフーから教わった通り、薄切りの豚肉と、ざく切りにした春キャベツ、そして色鮮やかな緑色のピーマンを、強火の油で一気に炒め合わせる。
野菜の水分が飛ぶ前に、主役である甜麺醤を豪快に加える。
鍋肌で調味料が焦げることで、独特の深いコクと甘辛い香りが爆発的に広がり、豚肉と野菜の表面に黒光りする濃厚なタレがしっかりと絡みついた。
「さあ、できましたわ。甜麺醤を使った回鍋肉です」
円卓に並べられた大皿からは、つやつやと輝く豚肉とキャベツが湯気を立てている。
カエラムが豚肉とキャベツを一緒に口へ運ぶと、彼のアンバーの瞳が驚きに大きく見開かれた。
「……これは、凄まじい美味しさです。甜麺醤の濃厚な甘辛さが、豚肉の脂の旨味と完璧に溶け合っている。さらに、高温で炒められたキャベツのシャキシャキとした食感と甘みが、全体の味を見事にまとめ上げています」
「本当ですわ。ユエフーさんの故郷の調味料は、いつも魔法のように食卓を豊かにしてくれますね」
濃いめの味付けは白米との相性が抜群で、二人は普段よりも多くの食事をあっという間に平らげてしまった。
――豊かな夕食と温泉での湯浴みを済ませた、夜の就寝スペース。
コルネリアは自身の寝台に腰掛け、膝の上に丸くなっているコユキの柔らかな白い毛並みを優しく撫でていた。
隣の寝台に座るカエラムに視線を向け、彼女はふと、日中に感じた疑問を静かに口にした。
「先生……今日、大きな魔物に遭遇して驚いてしまいましたけれど。私、王都の噂話などで、この森にはもっと無数の魔物が群れを成して襲ってくるような、ひどく危険な場所だとばかり思っておりましたの」
カエラムは手元の医学書を閉じ、丸メガネの奥の瞳を穏やかに和らげて彼女を見つめた。
「そう思われるのも無理はありません。ですが、実際のところ、魔物が頻繁に人里や我々の生活圏まで降りてくることは、実はそれほど多くはないのです。今日のように巨大な個体と遭遇するのは、運が悪かったとしか言いようがありません」
カエラムは言葉を区切り、少しだけ表情を引き締めた。
「とはいえ、危険がないわけではありません。私がこの診療所で、魔物による被害で運ばれてきた怪我人を治療するのは、年に数回程度です。しかし……その数回の中には、稀に命に関わるような大怪我を負ってしまうケースも存在します。決して油断していい場所ではない、ということですね」
「年に数回……そうなのですね」
コルネリアは膝の上のコユキの温かい体温を感じながら、小さく息を吐き出した。
外の人間が震え上がるような魔物の巣というイメージとは異なり、この森は基本的には静かで、平和な時間が圧倒的に長く続いているのだ。
「だからこそ、こうして何事もなく、温かい食事をいただき、あなたと共に穏やかな夜を迎えられるこの日常が……どれほど尊く、ありがたいものかということを、私は毎日実感しているのですよ」
カエラムが手を伸ばし、コルネリアの頬を優しく撫でる。
彼の大きな掌から伝わる確かな熱と、深く慈しむような視線に、コルネリアの胸の奥がじんわりと温かく満たされていく。
「ええ……私も、先生がいるこの場所が、世界で一番大切ですわ」
ランプの火が小さく落とされ、静寂が診療所を包み込む。
稀に訪れる危険な瞬間と、それを遥かに凌駕する圧倒的で穏やかな幸福。
二人は互いの存在の大きさを改めて深く心に刻み込みながら、満ち足りた初夏の夜の眠りへと静かに落ちていくのだった。




