135 ここが世界で一番優しくて、温かい場所です
川辺での恐ろしい遭遇から逃れるようにして、カエラムとコルネリアは早足で診療所へと帰還した。
分厚い木の扉を閉め、住み慣れた場所へと戻った途端――コルネリアは張り詰めていた糸が切れたように深く安堵の息を吐き出した。
「……怖かったですわ。あのまま食べられてしまうかと思いました」
「もう大丈夫です。私がついていますから」
カエラムは未だに微かに震えている彼女の肩を優しく抱きしめ、背中をゆっくりと撫でて落ち着かせた。
足元では、あの巨大なワニの魔物――ガブロスを一声で追い払った張本人であるコユキが、何事もなかったかのように「キュンキュン」と無邪気な声で鳴きながら、コルネリアの足首にすり寄っている。
カエラムはコルネリアを円卓の椅子に座らせると、戸棚から精神を落ち着かせる効能を持つ数種類のハーブを取り出し、温かいお茶を淹れ始めた。
カモミールと薄荷の清涼な香りがふわりと広がる。
カエラムは湯気を立てる二つのカップを円卓に置き、彼女の対面へと腰を下ろした。
二人はカップを両手で包み込むように持ち、そっと胸の前で手を合わせて温かな飲み物への感謝を告げた。
「いただきます」
一口飲むと、ハーブの優しい香りと温もりが、恐怖で冷え切っていたコルネリアの身体の芯をじんわりと解きほぐしていった。
「落ち着きましたか?」
「はい……ありがとうございます、先生。でも、今日の一件で改めて思い知らされましたわ。私たちが暮らしているこの森には、やはり恐ろしい魔物が潜んでいるのだと」
コルネリアがペリドットの瞳に不安を滲ませて呟くと、カエラムはカップを置いて静かに頷いた。
「ええ。ですが、ネリー。あなたも伯爵邸で学ばれたことがあるのではありませんか? この森の成り立ちについて」
カエラムの問いかけに、コルネリアはカップを両手で包み込んだまま、ゆっくりと頷いた。
「はい。この広大な森は、一応はアル・ディルーアン王国の領土……ですが、今日のような恐ろしい魔物が多数生息しているため、国が軍を派遣して安全を確保しようとすると、莫大な統治コストがかかってしまう。だからこそ、国もあえて手を出さずに放置している未統治辺境であると……昔、お父様たちが話しているのを聞いたことがありますわ」
「その通りです。さすがは伯爵令嬢としての教養ですね」
カエラムは感心したように微笑み、静かで穏やかな声で続けた。
「あなたの故郷であるゼサリア・オル王国の人々から見れば、ここは恐ろしい魔物の巣窟です。罪を犯した者や、追放された者が送られる場所であり、あの森送りは死刑と同義だと、誰もが震え上がるような恐ろしい土地として認識されています」
カエラムの言葉に、コルネリアは自身の過去を思い出し、伏し目がちになった。
無実の罪を着せられ、すべてを奪われて崖から落ちてしまったあの日。
彼女を貶めた者たちも皆、この森へ落ちた彼女が魔物に食われて死ぬことを疑っていなかったはずだ。
――しかし、カエラムはそんな彼女の不安を払拭するように、ふっと口角を上げて温かく微笑んだ。
「外の人間はそう思っています。ですが……実際にこの辺境の森に住み着いている我々にとって、ここは決して死の森などではありません」
カエラムは窓の外、明るい初夏の光が降り注ぐ森の木々へと視線を向けた。
「ここには、王都の民を苦しめるような重い税もなければ、息の詰まるような理不尽な身分制度も存在しません。お腹が空けば、イザークさんのように自ら畑を耕し、山の恵みを採り、タツィオ君のように狩りをすればいい。貧民区の人々やマルタさんのように、隣人同士が助け合い、持てるものを分け合って生きています。どうですか? 意外と悪くない、むしろ王都よりもずっと暮らしやすい場所だと思いませんか?」
彼の言葉を聞き、コルネリアの脳裏に、この森で出会ったたくさんの人々の温かい笑顔が次々と浮かび上がった。
美味しい野菜を届けてくれるイザーク、豪快な行商人のウラカ、心優しい老婦人のマルタ、そしてニコやラケル、ルーシーといった元気な子供たち。
「……はい。本当に、その通りですわ。私、この森に来てから、一度も不幸だと思ったことはありません。お野菜は美味しくて、空気は澄んでいて……何より、先生とこうして穏やかに笑い合えるのですから」
コルネリアが心からの笑顔を咲かせると、カエラムもまた深く頷き、彼女の頭を愛おしそうに撫でた。
――お茶の時間を終え、すっかりいつもの穏やかな心を取り戻した二人は、良いお天気に誘われるようにして裏庭へと出た。
裏庭の柔らかな草地では、ファノーネが美しい栗色の毛並みと金色のたてがみを初夏の風に揺らしながら、のんびりと草を食んでいた。
「ワフッ!」
カエラムの足元にいたコユキが、ファノーネの姿を見つけて尻尾を振りながらトコトコと駆け寄っていく。
しかし、近づいてくる白い毛玉を見たファノーネの反応は、普段の穏やかなものとは全く異なっていた。
「ブルルルッ……!」
ファノーネは草を食むのをやめ、耳を伏せて激しく後ずさったのだ。
賢い動物であるファノーネの野生の本能が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。
「おや、ファノーネが怯えていますね。コユキ、驚かせてはいけませんよ」
カエラムが声をかけると、コユキはピタリと足を止め、くるりと振り返った。
「お座り」
カエラムの静かな指示に、コユキはなんの反抗も見せず、ちょこんと行儀よくその場に座り込んだ。
コルネリアが近づいて「お利口さんですね」と白い頭を撫でると、コユキは目を細めて気持ちよさそうに「くぅ」と喉を鳴らし、完全にただの無邪気な末っ子として二人に甘えている。
その光景を少し離れた場所から見ていたファノーネは、ピクピクと動かしていた耳をゆっくりと元に戻した。
いかに本能が恐れを抱くような底知れぬ存在であろうとも、あの小さな白い生き物は、自分と同じように主たちに絶対の信頼を置き、優しく撫でられて喜んでいる。
どうやら、自分を害するような恐ろしい敵ではないらしい――。
ふう、と鼻から長く息を吐き出し、ファノーネは警戒を解いてゆっくりと歩み寄った。
そして、コユキの目の前でその長く立派な首を静かに下げた。
コユキも立ち上がり、短い鼻先をぴんと伸ばす。
栗色の大きな鼻面と、真っ白な小さな鼻先が、挨拶を交わすようにこつんと優しく触れ合った。
「ふふっ、ご挨拶ができましたわね。ファノーネ、今日からコユキはあなたの可愛い弟ですよ。仲良くしてあげてくださいね」
コルネリアが嬉しそうに微笑み、二匹の頭を交互に撫でる。
種族も大きさも全く違う二匹の動物が静かに寄り添う姿は、まるで一枚の美しい絵画のようだった。
「外の世界の人間が聞けば、ここを死の森だと笑うかもしれません。ですが……私にとっては、ここが世界で一番優しくて、温かい場所です」
カエラムが自然な動作でコルネリアの肩を抱き寄せ、彼女もまた、彼から伝わる頼もしい体温に身を委ねるようにしてそっと寄り添った。
――未統治の辺境、魔物が潜む深い森。
しかし、その森の奥深くにある小さな診療所には、互いを慈しむ人々と、種族を超えて心を通い合わせる動物たちの、決して外の世界では手に入らない絶対的な平和と幸福が、初夏の穏やかな陽光と共にどこまでも優しく満ち溢れていた。




