134 あの大きな魔物を、追い払ってくれたのですか……?
爽やかな初夏の朝。
広大な就寝スペースで、コルネリアは頬に当たる温かく湿った感触でゆっくりと目を覚ました。
「キュン、キュウゥン」
「ふふっ……おはよう、コユキ。今日も早起きですね」
ぺろぺろと顔を舐めてくるコユキの頭を優しく撫でながら、コルネリアは寝返りを打って隣へ視線を向けた。
――しかし、いつもならすぐ目の前にあるはずの、頼りがいのある広い胸板が見当たらない。
少し視線をずらすと、カエラムは寝台のずっと端の方で、コルネリアに背中を向けるようにして小さく丸まって眠っていた。
(先生……私からあんなに離れていらっしゃるなんて)
昨夜の、寝間着越しの密着によるドギマギをまだ引きずっているのだろう。
理性を保つために必死で距離を取っている彼の心情は理解できるものの、毎朝彼の温かい腕の中で目覚めるのが日課となっていたコルネリアは、少しだけ寂しくなってしまった。
コルネリアは寝台の端へとにじり寄ると、背中を向けているカエラムに後ろからそっと近づき――彼の広い背中へと、自身の身体をぴったりと密着させるようにして、ぎゅっと腕を回して抱きついた。
「……っ!?」
背中にふわりと押し当てられた、とてつもなく柔らかい感触。
カエラムの肩がビクッと大きく跳ね、彼は慌てた様子で振り返った。
アンバーの瞳が、激しく動揺して揺れている。
「ネ、ネリー!? 朝から、そのような不意打ちは……私の心臓が、本当に止まってしまいますよ」
「だって、先生が私から遠く離れたところで眠っていらっしゃるから……寂しかったのです」
少しだけ唇を尖らせ、上目遣いで甘えるように見つめてくる可憐な恋人。
その破壊力に、カエラムは深いため息を一つ吐き出し、完全に白旗を揚げた。
彼はゆっくりと腕を伸ばし、コルネリアの細い腰を引き寄せると、自身の胸元へとすっぽりと収めるようにして優しく抱きしめ返した。
「……降参です。あなたがこんなにも愛らしいから、私は少し離れて心を落ち着かせようとしたのですが……逆効果でしたね。おはようございます、ネリー」
「おはようございます、先生」
互いの温かい体温を分け合いながら、二人は幸福で甘い朝の時間をしばらくの間堪能した。
身支度を整えたコルネリアは、ホワイトブロンドの髪を後ろで一つにまとめ、エプロンを身につけてキッチンスペースへと立った。
まずは何よりも先に、足元で尻尾を振って待っているコユキにご飯を与える。
昨日と同じように、ひき肉と野菜を茹でて細かくしたものを皿に盛ると、コユキは夢中になって食らいついた。
続いて、自分たちの朝食作りだ。
ボウルに卵を割り入れ、細かく刻んだ旬のトマトやズッキーニをたっぷりと加えてよく混ぜ合わせる。
バターを熱した平鍋に流し込み、手早くかき混ぜてふっくらとした半熟のオムレツに仕上げた。
隣の鍋では、森で採れた数種類のきのこを牛乳でじっくりと煮込んだ濃厚なポタージュが、温かい湯気を立てている。
トコトコベイクで購入した丸パンを軽く炙り、食後のデザートとして、ミザリィの八百屋で買った瑞々しいプラムを切り分けて小皿に添えた。
「さあ、朝ごはんができましたわ」
円卓に向かい合って座る二人。
カエラムとコルネリアは、どちらからともなく胸の前でそっと手を合わせた。
「いただきます」
大地が育んだ恵みと、命への静かな感謝を込めた挨拶。
夏野菜の水分がジュワッと弾けるオムレツと、きのこの旨味が凝縮されたポタージュが、目覚めたばかりの身体にじんわりと染み渡っていく。
「このオムレツ、トマトの酸味と卵の甘みがとてもよく合っています。きのこのポタージュも濃厚で素晴らしいですね」
「ありがとうございます。プラムもとっても甘くて美味しいですよ」
穏やかな会話を交わしながら、二人は豊かな朝の食卓を楽しんだ。
――朝食と日課の片付けを終えた後。
コルネリアは、診療所で使っている大きなシーツや布類を洗濯するため、大きな籠を抱えて森の奥にある川辺へと向かっていた。
カエラムは診療所の薬草の仕分け作業があるため留守番だが、足元には小さなコユキが「クンクン」と鼻を鳴らしながら、頼もしい護衛のようについてきている。
初夏の木漏れ日が水面にきらきらと反射する、澄み切った川辺。
コルネリアは川の浅瀬にある平らな岩場にしゃがみ込み、冷たい水でシーツをゴシゴシと洗い始めた。
コユキは少し離れた草地で、蝶を追いかけたり花を嗅いだりと楽しそうに遊んでいる。
平和な時間が流れていた――その時。
突如として、コルネリアの目の前の川面が不自然に大きく盛り上がり、激しい水しぶきが上がった。
驚いて顔を上げた彼女の視界に飛び込んできたのは、水底からぬるりと這い出てきた、巨大な爬虫類の姿だった。
分厚く硬い鱗に覆われた巨体。
そして、鋭い牙がびっしりと並んだ、丸太を容易く噛み砕けそうなほど巨大な顎。
森の水辺に稀に出没するという、ワニの魔物――ガブロスだった。
「ひっ……!」
予期せぬ恐ろしい魔物の出現に、コルネリアは短い悲鳴を上げ、腰を抜かしたようにその場にへたり込んでしまった。
ガブロスは黄色く濁った瞳でコルネリアを捉え、ギチギチと顎を鳴らしながら、その巨体をずるりと陸地へと引き上げようと前進してくる。
恐怖で身体がすくみ、逃げることさえできない。
魔物の巨大な影が彼女を覆い尽くそうとした――まさにその瞬間。
小さな白い影が、へたり込むコルネリアの前に素早く飛び出した。
コユキは巨大なガブロスを前にしても一切怯むことなく、小さな四肢を踏ん張って立ち塞がった。
そして、ガブロスを真っ直ぐに睨みつけ、辺りの空気をビリビリと震わせるような威圧感を込めた声で一度だけ短く吠えた。
「ワフッ!!」
たったそれだけだった。
コユキの鳴き声を聞いた瞬間――先ほどまで獰猛に迫ってきていた巨大なガブロスの動きが、ピタリと止まった。
ガブロスの濁った瞳に、はっきりとした恐怖の色が浮かぶ。
巨大なワニの魔物は、まるで天敵から逃れるように慌てて身を翻し、激しい水しぶきを上げて川の奥深くへと姿を消してしまったのだ。
「え……?」
何が起きたのか全く理解できず、コルネリアは呆然と水面を見つめた。
コユキは何事もなかったかのように尻尾を振り、「キュン」と鳴いてコルネリアの頬を心配そうに舐めてくる。
「コユキが……あの大きな魔物を、追い払ってくれたのですか……?」
「ネリー!!」
コルネリアが信じられない思いでコユキを抱き上げた直後、森の奥から木々をかき分けるようにして、カエラムが血相を変えて飛び出してきた。
魔物の異様な気配を察知し、仕事の手を止めて全速力で駆けつけてきたのだ。
「カエラム先生……!」
カエラムは息を切らしながらコルネリアの元へ駆け寄り、彼女の身体に怪我がないかを瞬時に確認すると、地面に座り込んでいた彼女を力強く抱き起こし、そのまま自身の腕の中へと強く抱きしめた。
「良かった……怪我は、ありませんね。大きな魔物の気配がしたから、生きた心地がしませんでした」
「はい、私は無事ですわ。あの……コユキが、魔物を追い払ってくれたみたいなのです」
「……コユキが?」
カエラムはコルネリアの背中を安堵のあまり強く抱きしめながら、足元で「ワフゥ」と得意げに鳴く子犬へと、不思議そうな視線を向ける。
川辺での突発的な恐怖と、ただの犬とは思えない小さな家族の不思議な力。
カエラムの力強い腕の中で安堵の息を吐き出しながら、コルネリアはコユキの持つ未知の秘密の片鱗に、静かに触れるのだった。




