133 ドキドキして、眠れませんっ
西の空が燃えるような茜色から、静寂な群青色へと染まり始めた夕暮れ時。
森の診療所のキッチンスペースでは、何よりも先に夕食を要求する小さな家族の、可愛らしい催促の声が響き渡っていた。
「キュウゥン! キュン!」
コユキがコルネリアの足元にまとわりつきながら、短い尻尾をちぎれんばかりに振っている。
育ち盛りの子犬の腹時計は、この上なく正確であった。
「はいはい、コユキ。今すぐご用意いたしますからね」
コルネリアは微笑みながら、新鮮なひき肉と細かく刻んで柔らかく茹でた野菜を混ぜ合わせた食事を、小さな陶器の皿にたっぷりと盛り付けた。
床に置かれた瞬間、コユキはマリンブルーの瞳を輝かせて顔を突っ込み、一心不乱に食べ始めた。
「さて、彼のお腹も満たされたことですし、私たちも夕食の準備に取り掛かりましょうか」
「ええ。マルタさんにいただいた山菜の天ぷらですね。考えるだけで喉が鳴ってしまいます」
カエラムが白衣の袖を捲り上げ、コルネリアの隣に立つ。
天ぷらの命は、何と言ってもその衣の軽さと油の温度である。
コルネリアはボウルに冷たい水を用意し、そこに小麦粉を振り入れて、あえて粘り気が出ないように菜箸でさっくりと軽く混ぜ合わせた。
厚手の平鍋にたっぷりと油を注ぎ、かまどの火で高温に熱する。
マルタがあくを抜いてくれた立派なワラビ、特有の香りを持つウド、そして肉厚なイワタバコの葉に、薄く冷たい衣を纏わせて、次々と熱い油の中へと落としていった。
ジュワァァッ! という派手な音がキッチンスペースに響き渡る。
衣に含まれた水分が一気に蒸発し、表面がサクッと固まっていく。
それと同時に、山菜が持つ青々しく清涼な香りがふわりと立ち上り、二人の食欲をこれでもかと刺激した。
「良い色に揚がりましたわ。熱いうちに、お庭でいただきましょう!」
二人は揚げたての天ぷらが乗った大皿と、岩塩、そしてよく冷えたエールの瓶を手に持ち、診療所の裏庭へと出た。
初夏の夜風が吹き抜ける裏庭に、小さな木の机と椅子を並べる。
庭の隅では、この季節を告げる純白のクチナシの花が満開に咲き誇っていた。
ランプの淡い光に照らされた白い花びらから、夜風に乗って甘い香りが漂ってくる。
さらに、森の奥の暗がりからは数匹のホタルが淡い緑色の光を明滅させながら、ふわりふわりと宙を舞い始めていた。
「素晴らしい夜ですね。では……今日も一日、お疲れ様でした」
「お疲れ様でございました。乾杯」
グラスを打ち合わせ、冷たいエールを喉に流し込む。
一日の疲れを洗い流すような爽快感に息を吐き出した後、二人はさっそく揚げたての山菜の天ぷらにほんの少しの岩塩を振り、口へと運んだ。
サクッ、という極上の音と共に、薄い衣が口の中で軽やかに崩れる。
ワラビの心地よい歯ごたえ、ウドの鼻に抜けるような強い香りとほろ苦さ、そしてイワタバコの肉厚な葉から溢れる瑞々しい水分。
山菜特有の野性味あふれる風味と苦味が、塩によって完璧に引き立てられ、油のコクと見事に調和していた。
「……これは、見事です。サクサクの衣の後に広がる、大人のほろ苦さ。そこにすかさず冷たいエールを流し込むと……たまらないですね」
「本当に美味しいですわ。マルタさんが天ぷらが一番と仰っていた理由がよく分かります」
甘く香るクチナシの夜風と、ホタルの幻想的な光を背景に。
サクサクとした天ぷらの音と、グラスをテーブルに置く音だけが、初夏の夜の裏庭に心地よく響き渡っていた。
――そして、夜が更けた頃。
温泉の湯浴みで一日の汗と油の匂いをさっぱりと洗い流した二人は、診療所内のランプの火を落とし、壁際に並べられた就寝スペースへと向かった。
しかし、今夜のカエラムは、いつものように穏やかな顔で寝台に入る準備をすることができなかった。
寝台の端に腰掛けた彼の脳内では、午前中にウラカが豪快に笑いながら放った言葉が、何度も何度も呪いのようにリフレインしていたのである。
――嬢ちゃん、本当はすごくスタイルが良いだろう? 出るところはしっかり出ていて、腰は細い。その水着、絶対にサイズがぴったり合うはずさ!
分かっている。
彼女のプロポーションが、女性として非常に魅力的であることなど、毎日すぐ傍で彼女を見つめ、夜な夜な同じ寝台で身を寄せ合っている彼が一番よく理解していた。
だが、第三者の――しかも人生経験の豊富な行商人の口からあそこまで直接的に指摘され、水着という布面積の少ない衣服を想像させられてしまったことで、カエラムの理性の壁にはヒビが入り、かつてないほど強烈に彼女の身体を意識してしまっていたのだ。
(落ち着け……私は医師だ。理性的でなければならない……)
カエラムが丸メガネを外してケースにしまい、熱を持った目頭を指で押さえて深く深呼吸を繰り返していると、そんな彼の激しい葛藤など露知らず、薄手の寝間着に身を包んだコルネリアが不思議そうに近づいてきた。
「先生……? どうか、なさいましたの?」
「……っ!」
心配そうな声と共に、彼女がカエラムの隣にふわりと腰を下ろし、彼の顔を下から覗き込むようにして身を乗り出してきた。
その瞬間――。
カエラムの右腕に、彼女の薄い寝間着越しの、信じられないほど柔らかく、そして豊かな膨らみが、むにっと押し当てられたのである。
カエラムの思考は、そこで完全に停止した。
ウラカの言葉通り、出るところはしっかり出ているというその事実が、圧倒的な質量と体温を伴って、彼の肌に直接伝わってくる。
湯上がりの彼女から漂う甘い石鹸の香りと、クチナシの残り香。
そして、腕に密着したまま離れない、女性特有の柔らかな感触。
カエラムの身体は完全に石像のように硬直し、息をすることすら忘れてしまったかのように固まった。
心臓だけが、肋骨を突き破りそうなほどのけたたましい音を立てて、早鐘のように打ち鳴らされている。
「先生? お顔がひどく赤いですわ。もしかして、お風邪でも……」
コルネリアは心配のあまり、さらに彼へと身体を密着させ、彼のおでこに自身の手を当てようとした。
しかし――その時にようやく、コルネリアも気づいたのである。
彼が息を詰まらせるようにして視線を逸らしていること。
彼の身体が尋常ではないほど熱を持ち、触れ合う腕からとてつもない速さの心音が伝わってくること。
そして何より――自分が今、彼に対してどのような形で密着してしまっているのか、ということに。
「あっ……!」
すべての状況を理解した瞬間、コルネリアの全身の血が沸騰したかのように、顔全体が一気に真っ赤に染め上がった。
(私……っ、先生に、女性として……こんなにも強く、意識されていらっしゃる……!)
愛する人からの、ごまかしのきかない反応。
自身の胸元から伝わる彼の熱と硬直に、コルネリアの心臓もまた、カエラムに負けないほどの凄まじい音を立てて高鳴り始めた。
急いで身体を離すべきだと頭では分かっているのに、恥ずかしさと、彼に意識されているという甘い喜びで身体が痺れてしまい、動くことができない。
二人は顔を真っ赤にして茹で上がったまま、互いの視線を合わせることもできず、ただ沈黙の中、激しい心臓の音だけを共有していた。
やがて、先に限界を迎えたのはカエラムだった。
これ以上彼女の柔らかさと体温を感じ続けていては、自身の張っていた理性の糸が音を立てて千切れてしまうと本能で悟ったのだ。
「……っ、ネリー!」
カエラムはがばっと彼女の肩を掴むと、これ以上の接触を避けるように――そして、自身の中に渦巻く強烈な衝動を封じ込めるようにして、彼女の唇にチュッと、触れるだけの短い口づけを落とした。
「お、おやすみなさいっ!」
普段の彼からは想像もつかないほど上ずった声でそう言い残すと、カエラムは慌てて布団に潜り込み、彼女に背中を向けるようにして横向きに丸くなってしまった。
「おっ……おやすみ、なさいませっ……!」
コルネリアもまた、限界まで顔を赤くしたまま自身の口元を両手で覆い、カエラムに背中を向けるようにして慌てて横になった。
ランプの火が完全に消え、暗闇に包まれた診療所。
二人は背中合わせになり、互いの顔を見ないようにして目を固く閉じていた。
しかし、二つの寝台は隙間なくぴったりとくっつけられている。
背中と背中が触れ合うギリギリの距離から、互いの尋常ではない体温と、バクバクと暴れるような心臓の音が、痛いほどに伝わり合ってきていた。
(先生の……背中が、すごく熱いですわ……ドキドキして、眠れませんっ……)
(……だめだ。目を閉じても、腕の感触と彼女の赤い顔が浮かんできて……今夜は、一睡もできそうにない)
ウラカが残していった何気ない言葉の威力が招いた、甘く危険なハプニング。
互いを強く意識し合い、顔を真っ赤にして背中を向ける二人の大人たちは、足元で無邪気な寝息を立てるコユキをよそに、悶々とした眠れない初夏の夜をいつまでも過ごすのだった。




