131 コユキはコユキですわよね?
深い雨雲が去り、初夏の眩しい陽光が森の木々を照らし出す爽やかな朝。
二つの寝台を合わせた就寝スペースで誰よりも早く目を覚ましていたのは、昨夜からこの診療所の新しい家族となった、雪のように白い子犬のコユキだった。
「キュン、キュウゥン」
お腹を空かせたコユキは、まだ深い眠りの中にあるコルネリアの顔の横にちょこんと座り、頬や鼻先を小さな舌でぺろぺろと熱心に舐め始めた。
「んん……くすぐったいですわ……」
顔に当たる温かく湿った感触に、コルネリアがゆっくりとペリドットの瞳を開く。
目の前には、しっぽをちぎれんばかりに振って朝ごはんを催促する、マリンブルーの瞳をした雪色の毛玉の姿があった。
「ふふっ、おはようございます、コユキ。すっかり元気になったみたいですね」
「……賑やかな朝の始まりですね。おはようございます、ネリー」
コルネリアの起きる気配で目を覚ましたカエラムも、二人の微笑ましいやり取りを見て瞳を優しく和らげた。
家族が二人と二匹になって迎える、初めての朝である。
身支度を整え、キッチンスペースへと立ったコルネリアは、まずは腹ペコの小さな家族のための朝食作りに取り掛かった。
昨日アルバーノの店で買ってきた新鮮な牛肉の端切れと、菜園で採れた柔らかな葉野菜を細かく刻み、小鍋で柔らかくなるまで茹で上げる。
それをすり鉢でペースト状に近いミンチにして、コユキの小さな皿へ移した。
皿を床に置いた途端、コユキは夢中になって顔を突っ込み、一心不乱に食べ始めた。
続いて、自分たちの朝食の準備だ。
鍋に澄んだスープを張り、旬のトマトとズッキーニをたっぷりと入れて火にかける。
野菜の自然な甘みと酸味が溶け出した、朝の身体に優しい温かなスープである。
そして主役は、昨日トコトコベイクで購入した色鮮やかなパンたちだ。
真っ赤なトマトと厚切りベーコンが乗った香ばしいフォカッチャ。
コーンの自然な甘みが詰まった、ふんわりとした黄色い丸パン。
ナスとスパイシーな肉厚ソーセージを挟み込んだ総菜パン。
円卓に並べられたパンを、カエラムがナイフで食べやすく切り分ける。
「このフォカッチャ、温め直すと香草の油の匂いが引き立ってさらに美味しいですね。コーンの丸パンの甘みも、トマトのスープとよく合います」
「ええ。ポポさんたちの作るパンは、朝から本当に元気をいただけますわ」
――美味しい朝食でしっかりと活力を補給した後は、日課の力仕事である。
カエラムが馬小屋の掃除を行い、コルネリアが裏庭の菜園にたっぷりと水をやる。
そして昨日、冷たい雨の中を文句も言わずに健気に走ってくれたファノーネには、ご褒美として立派なにんじんを丸ごと一本プレゼントした。
ファノーネは嬉しそうに歯を立ててにんじんを頬張り、ボリボリと音を立てて咀嚼した。
朝の仕事をすべて終え、キッチンスペースで紅茶を淹れて一休みしようとした時のこと――。
森の小道の方から、ザッ、という派手な転倒音と、「痛ててっ……!」という大きな声が聞こえてきた。
二人が顔を見合わせて外へ飛び出すと、そこには泥だらけの足を抱えてうずくまっている、行商人のウラカの姿があった。
「ウラカさん! どうなさいましたの!?」
「いやはや、嬢ちゃんたち……昨日の雨で森の土がぬかるんでいてね、派手にすっ転んじまったよ」
ウラカが苦笑いしながら捲り上げたズボンの下からは、赤くすりむけた膝からかなりの量の血が流れ出していた。
「ひどい出血です。すぐに中へ入ってください」
カエラムがウラカの肩を貸して診察台へと案内する。
すぐさま水と消毒薬を用意し、傷口に入り込んだ泥や小石を丁寧に取り除いていく。
その横でコルネリアが魔力を練り上げ、指先から微かな冷気を放って患部を少しだけ冷やし、ウラカの痛みを瞬時に和らげた。
二人の流れるような連携により、手当てはあっという間に完了した。
「さすがはカエラム先生と嬢ちゃんだ。痛みが引いて、すっかり楽になったよ」
包帯を巻かれた膝を撫でながら、ウラカはいつもの豪快な笑顔を取り戻した。
「傷が塞がるまでは、無理な長歩きは控えてくださいね。それにしても、大きなお怪我にならなくて本当に良かったですわ」
コルネリアが安堵の息を吐き出すと、ウラカは「助けてもらったお礼をさせておくれ」と言って、背負っていた大きな荷袋から、色鮮やかな布の包みを二つ取り出した。
「実は最近、遠くの南の島まで足を伸ばしてね。そこで今一番流行っているという、最新の水着を仕入れてきたのさ。これは、あんたたち二人への贈り物だよ!」
ウラカが包みを開くと、一つは深い海のような青色に南国の花の模様があしらわれた男性用の水着。
そしてもう一つは、上品な白色の生地に細やかなフリルが施された、ひどく可愛らしく、そして布の面積が少しばかり少ない女性用の水着であった。
「まあ……! とても素敵なデザインの水着ですわ。ですが、私にサイズが合うでしょうか?」
コルネリアが水着を手に取って首を傾げると、ウラカはニヤリと笑い、コルネリアの全身を頭の先からつま先まで値踏みするようにまじまじと見つめた。
「嬢ちゃん、あんたは普段ゆったりとしたエプロンやワンピースを着てるから目立たないけどね……私のような商人の目は誤魔化せないよ。あんた、実はすごくスタイルが良いだろう? 出るところはしっかり出ていて、腰は細い。その水着、絶対にサイズがぴったり合うはずさ!」
「えっ……!?」
唐突に自身の隠れたプロポーションの良さを絶賛され、コルネリアは顔を真っ赤にしてパニックに陥った。
さらに、そのウラカのあけすけな言葉を隣で聞いていたカエラムは、思わずゴホッ、と激しくむせ込み、丸メガネの奥で視線を限界まで彷徨わせた。
(……ええ。私の理性を毎晩焼き尽くそうとするほどには、彼女のスタイルは素晴らしいですから……)
冷静さを装いながらも真っ赤になっているカエラムの心中を察したのか、ウラカは豪快に笑い声を上げた。
「はははっ! 前に私がお土産であげた釣り竿も持って、今年の夏は二人でお揃いの水着を着て、さらに海デートを楽しみな!」
ウラカはバチンと景気の良いウインクを飛ばした。
すっかり元気を取り戻した彼女は、荷袋を背負い直して立ち上がる。
「それじゃあ、私は次の街へ向かうとするよ。また珍しい品を見つけたら持ってくるからね!」
診療所の入り口で、カエラムとコルネリアが並んで立つ。
「コユキも、見送りのご挨拶をしましょうね」
コルネリアが足元にいたコユキを抱き上げると、コユキはウラカに向かって「ワフッ!」とよく通る声で鳴いた。
「おや……?」
その声と姿を見た瞬間――ウラカの豪快な笑顔がぴたりと止まり、商人の鋭い目つきへと変わった。
彼女はコルネリアの腕の中にいるコユキに顔を近づけ、その澄み切ったマリンブルーの瞳と、子犬にしてはやけに骨太な前足、そして全身から微かに立ち上る只者ではない気配をまじまじと観察した。
「嬢ちゃん、この子は……どこから来たんだい?」
「昨日の雨の中、森の奥で怪我をして倒れていたんです。白くて可愛いでしょう?」
コルネリアが無邪気に微笑むと、ウラカは顎に手を当てて低く唸った。
「森の奥で、ねぇ。私は行商人として色んな土地を渡り歩いて、それこそ珍しい獣も数え切れないほど見てきたが……この子は、ただの犬じゃないね」
「ただの犬では、ない……?」
「ああ。こんな深く知性を宿した瞳を持った犬は見たことがない。それに、この爪と骨格……成長したら、とんでもない大物になるかもしれないよ」
ウラカの真剣な言葉に、カエラムとコルネリアは顔を見合わせた。
しかし、すぐにウラカはいつもの豪快な笑顔に戻り、コユキの頭をぽんぽんと撫でた。
「まあ、どんな獣だろうと、あんたたち二人が愛情たっぷりに育てれば、間違いなく立派な家族になるさ! 大切にしてやりな!」
意味深な言葉を残し、ウラカは大きく手を振って、力強い足取りで森の小道を進んでいった。
その背中が見えなくなるまで見送った後、コルネリアは腕の中のコユキと目を合わせた。
「ただの犬ではない、ですか……コユキはコユキですわよね?」
「ワフゥ!」
コユキは嬉しそうにコルネリアの頬を舐めた。
カエラムは静かに微笑み、手にした海色の水着を見つめて、まだ少しだけ赤い頬のままのコルネリアを見下ろした。
「……ネリー。今年の夏は、この水着を着て海へ行きましょう。ただし、私の理性が持ち堪えられるかどうか……今から夏の海が恐ろしいですよ」
賑やかで豪快な行商人の来訪と、夏の海への甘い約束。
そして、ただの犬ではないかもしれない新しい家族の存在――。
初夏の風が吹き抜ける森の診療所で、小さな命の温もりを感じながら、二人の満ち足りた一日は明るく健やかに始まっていくのだった。




