130 この子の名前は、コユキにいたしましょう
激しさを増す初夏の雨を遮るように、カエラムはファノーネの速度を上げ診療所へと滑り込んだ。
馬小屋へファノーネを戻したカエラムは、大きな荷袋を肩に担ぎ、すぐに建物の扉を開ける。
コルネリアは腕の中に泥まみれの小さな命を大切に抱きかかえたまま、急いで室内へと駆け込んだ。
「ネリー、まずはその子を温めてあげましょう。裏から温泉の熱いお湯を汲んできます」
カエラムは手際よく荷物を置くと、すぐに木製の大きなタライを持って裏手へ向かった。
コルネリアはキッチンスペースの木台に腰掛け、厚手の布に包まれた子犬をそっと見つめる。
冷たい雨に打たれ続けた小さな体は、未だにガタガタと小刻みに震えていた。
すぐにカエラムが、湯気を立てる温泉の湯をなみなみとタライに満たして戻ってきた。
キッチンの床にタライを置き、二人は顔を見合わせる。
「驚かせないように、ゆっくりと浸からせてあげてください」
「はい……大丈夫ですよ、怖くありませんからね」
コルネリアは優しく声をかけながら、泥でカチカチに固まった子犬の体を、温かいお湯の中へと静かに沈めた。
じんわりとした心地よい熱が体に染み渡ったのか、子犬は一瞬だけマリンブルーの瞳を大きく見開いたものの、暴れることもなく、気持ちよさそうに小さく鼻を鳴らした。
コルネリアは自身の指先を使い、毛並みにこびりついた黒い泥や汚れを、丁寧に揉みほぐすようにして洗い流していく。
カエラムが横から温かいお湯を何度もかけ流すと、タライの中の水はあっという間に濁っていった。
しかしそれと引き換えに、元々はどんな姿をしていたのかが少しずつ明らかになっていく。
大まかな汚れを落とし終え、用意しておいた清潔な布で全身の水気をしっかりと拭き取った。
だが、濡れたままの被毛のままで置いておけば、初夏の夜風で再び体が冷えてしまう。
「毛を完全に乾かしてあげたいのですが、私の炎の魔法ではこの子を焦がしてしまいかねません……少しだけ、集中しますね」
コルネリアは呼吸を整え、そっと両手を濡れた子犬の体へとかざした。
彼女が普段使い慣れている火や氷の魔法とは異なり、対象を傷つけずに空気を操る風の操作は、繊細な魔力の制御を必要とする。
彼女がペリドットの瞳を静かに閉じ、指先から細く柔らかな魔力を紡ぎ出すと、キッチンスペースの中に春の陽だまりを思わせるようなほんのりと温かい微風が生まれ、穏やかに渦を巻き始めた。
サラサラとした温風が、濡れた毛並みを一本一本優しく解きほぐしていく。
カエラムはその様子を丸メガネの奥の瞳を丸くして見つめていた。
コルネリアの魔法の技術が日を追うごとに実用的なものへと進化していることに、深い感銘を受けていたのだ。
やがて完全に湿り気が飛び、風が止んだ時――二人は思わず小さく息を呑んだ。
そこにいたのは、一筋の濁りもない、まるで新雪のように美しい純白の被毛をまとった子犬だった。
ふんわりと膨らんだ白い毛並みと、そこから覗く深いマリンブルーの瞳。
泥を落としたその姿は、高貴ささえ感じられるほどに美しかった。
「まあ……なんて綺麗な白い毛並みでしょう。まるで、冬の朝に降る静かな雪のようですわ」
コルネリアが愛おしそうにその小さな頭を撫でると、子犬は手のひらに額をこすりつけて甘えてきた。
「……コユキ。この子の名前は、コユキにいたしましょう」
自然と唇から溢れ出たその響きに、カエラムはふっと表情を和らげ、静かに問いかけた。
「ネリー。名付けるということは、この子をここで、私たちの家族として迎えるということですね?」
「もちろんですわ、先生。この広い森の中で出会ったのですもの。私たちが、この子の新しいお父様とお母様になりましょう」
一切の迷いのない、花が綻ぶような笑顔。
カエラムは自身の無精髭の生えた顎を少しだけ掻くと、嬉しそうに頷いた。
「分かりました。今日からこの診療所は、二人と二匹暮らしですね」
家族になる約束を交わしたところで、カエラムは医師としての本分へと戻った。
コユキをそっと寝台の上へ乗せ、不自然に引きずっていた後ろ足を観察する。
指先で慎重に骨の具合を確かめていくが、コユキが痛がる素振りは小さかった。
「幸い、骨には異常ありません。軽い捻挫と、枝で擦ったような小さな傷があるだけです。消毒をして、数日安静にさせていればすぐに元通りに走れるようになりますよ」
カエラムが手際よく軟膏を塗り、小さな包帯を巻いて手当てを完了させる。
「安心したら、この子もお腹が空いてしまったようです。ネリー、先ほどアルバーノさんの店で買ってきたお肉を、少しだけ分けてあげましょうか」
「ええ、すぐに準備いたしますわ!」
コルネリアは荷袋から、完全に冷凍状態だった上質な牛肉かたまりを少しだけ切り出し、魔法の熱で人肌程度に解凍した。
それを、子犬の小さな口でも食べやすいように、小刀で細かく刻んでいく。
小さな陶器の皿に盛ってコユキの前に置くと、コユキは短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら、夢中になって肉を食み始めた。
ぺろぺろと皿を綺麗に舐め上げる姿を見て、二人は心からホッと胸を撫でおろした。
満腹になったコユキが、寝台の隅に用意された柔らかな布の上で丸くなり、スースーと規則正しい寝息を立て始めた――まさにその時だった。
グゥ、と。
静まり返った診療所の中に、二つの重なったお腹の音が、少しだけ間の抜けた響きで鳴り響いた。
「おや……」
「まぁ……」
お互い、コユキの救命に夢中になるあまり、自分たちの食事のことを完全に忘れていたのだ。
顔を見合わせ、どちらからともなく可笑しそうに笑い声をこぼす。
「これだけ動いたのですから、お腹が空くのも当然ですね。今夜は、アルバーノさんから仕入れたあの新鮮なお肉をご馳走にしましょう」
「はい! 牛肉と豚肉を合わせて、夏野菜をたっぷりと使った煮込みハンバーグにいたしましょう」
二人は並んでキッチンスペースへと立った。
カエラムは白衣の袖を逞しく捲り上げると、大きな肉切り包丁を両手に持ち、アルバーノの店で買った牛肉と豚肉の塊を、まな板の上で交互に力強く叩き始めた。
リズミカルな金属音がキッチンスペースに響く。
カエラムの手によって、肉は均一で極上の、ジューシーな合い挽き肉へと姿を変えていく。
その間にコルネリアは、菜園で収穫した新玉ねぎを細かくみじん切りにし、バターを溶かした平鍋で飴色になるまでじっくりと炒めた。
カエラムが叩き上げた挽肉と、冷ました玉ねぎ、そして少量の塩と香草の粉末を合わせ、コルネリアが両手で手早く練り上げていく。
肉の脂が手の体温で溶け出さないよう、迅速に、かつ空気を抜くように成形し、丸く大きなハンバーグの形を二つ作った。
熱した平鍋にハンバーグを並べると、ジューという音が立ち上り、一気に肉の香ばしい匂いが広がった。
表面に美しい焼き色がついたところで、ミザリィの店で仕入れた完熟のトマトを贅沢に手で潰して鍋へと投入する。
さらに、初夏の恵みであるナスやズッキーニを大きめに切り分けて周囲に並べ、蓋をしてコトコトと弱火で煮込んでいった。
肉汁とトマトの酸味、そして夏野菜の甘みが完璧に溶け合い、キッチン全体が至福の香りで満たされていく。
「さあ、お待たせいたしました。熱いうちに召し上がってくださいね」
円卓に並べられたのは、深い赤色のソースをたっぷりと纏った、ふっくらとした煮込みハンバーグだ。
カエラムが手を合わせてから小刀を入れると、閉じ込められていた熱い肉汁が溢れ出し、ソースと混ざり合って美しい輝きを放った。
一口頬張れば、手切りの挽肉ならではの力強い食感と旨味が押し寄せ、後からトマトの爽やかな酸味と、ナスとズッキーニのとろけるような甘みが完璧な調和を見せる。
「……素晴らしい。肉の力強さが、夏野菜の水分と酸味によって見事に引き立てられています。これほど贅沢なハンバーグは食べたことがありません」
「イザークさんたちの愛情が詰まった食材を、私たちがこうして美味しくいただける。本当に、ありがたいことですわね」
二人は静かに言葉を交わしながら、充実したお出かけの一日を締めくくる最高の夕食を、ゆっくりと、大切に味わった。
――夜が更け、診療所内のランプの灯りが小さく落とされる。
窓の外では、変わらず静かな初夏の雨が、森の木々を優しく濡らし続けていた。
壁際にぴったりと並べられた、二つの寝台。
コルネリアはいつものように、カエラムの大きな胸元へと自身の身体をすっぽりと委ね、彼の広い腕に抱きしめられていた。
背中越しに伝わってくる彼の確かな体温と、心地よい無精髭の気配。
そして今夜は二人の足元に、小さな白い毛玉のようなコユキがすっかり安心しきって丸くなり、かすかな寝息を立てている。
「……先生。本当に、温かくて賑やかな日になりましたね」
コルネリアが胸元で小さく囁くと、カエラムは愛おしさに満ちた目で彼女を見つめ、その華奢な肩を優しく抱きしめ返した。
「ええ。私たちの元へ来てくれたコユキのためにも、明日からまた、この場所で一生懸命に命を繋いでいきましょう。おやすみなさい、ネリー」
「おやすみなさいませ、先生」
新しい家族の確かな体温を足元に感じながら、二人は互いの存在の尊さを改めて深く噛み締め、静かに眠りへと落ちていくのだった。
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