129 先生、放ってはおけませんわ
降り続く初夏の雨が、市場通りの色とりどりな天幕をリズミカルに叩いていた。
美味しいパンを手に入れた二人が夕食と保存用の食材を求めて歩いていると、雨の鬱陶しさを吹き飛ばすような、チャキチャキとした気丈な声が飛び込んできた。
「さあさあ、寄っていきな! 今日は雨水をたっぷりと吸った良い夏野菜と、甘い果物が入ってるよ!」
声の主は、大きな木箱を軽々と並べていた八百屋の女店主だった。
頭に巻いた手拭いと、日に焼けた健康的な肌。
彼女の威勢の良い声に引き寄せられるように、コルネリアは店先に並んだ瑞々しい野菜や果物に目を輝かせた。
「まあ、なんて立派なトマトにナスなのでしょう。それに、このプラムや桃もとても良い香りがしますわ」
「お姉さん、お目が高いね! 今朝採れたばかりで、どれも味が濃くて最高だよ。いっぱい買っていきな!」
気風の良い女店主に勧められるがまま、コルネリアは夕食に使う野菜や、食後の楽しみにする旬のフルーツを次々と選んでいく。
そんな二人のやり取りを後ろから微笑ましく見守っていたカエラムは、ふと、女店主の顔を見てあることに気がついた。
彼女の快活な笑顔に宿る、深く美しい藤色の瞳。
それは、あの偉大な農夫のものとまったく同じ色彩だったのだ。
「……その藤色の瞳。もしかして、あなたはイザークさんのご親族ですか?」
カエラムが問いかけると、女店主は野菜を包む手をピタリと止め、丸く目を瞬かせた。
そして、翡翠色の髪に丸メガネというカエラムの特徴的な出で立ちをまじまじと見つめ、ポンと手を打った。
「おやっ! もしかして、森の診療所のカエラム先生かい? なんだ、先生だったのか! あたしはイザークの娘のミザリィだよ。いつも父さんがすっかり世話になってるね!」
「やはりそうでしたか。ミザリィさん、こちらこそ、お父様が育てられた素晴らしいお野菜にはいつも助けられています」
ミザリィは「父さんの野菜の味を分かってくれる先生なら、うんとオマケしておくよ!」と快く笑い、購入した品物の上にさらにいくつか果物を乗せてくれた。
ミザリィの店でたっぷりと野菜を買い込んだ後、二人はすぐ隣に店を構えている精肉店へと足を向けた。
「おおっ! その声は、カエラム先生じゃねえか!」
店先に立つなり、地響きのような太い声で歓迎を受けた。
声の主は、丸太のように太い腕と、見上げるほどの筋肉質な巨体を持つ肉屋の店主――アルバーノであった。
彼は大きな肉切り包丁を台に置き、嬉しそうにカエラムの肩を軽く叩いた。
彼もまた、過去に仕事中の大きな怪我をカエラムに縫ってもらい、深く恩義を感じている街の住人の一人である。
「お久しぶりです、アルバーノさん。腕の傷の具合はもうすっかり良さそうですね。こちらは、私の助手のコルネリアです」
「アルバーノさん、初めまして」
コルネリアが丁寧にお辞儀をすると、アルバーノは巨体を少し丸めるようにして照れくさそうに笑った。
「先生の助手さんか! 先生には命を助けてもらった恩があるからな、今日はとびきり新鮮で上質な牛肉と豚肉を安くしておくぜ! ただ、生肉は今の時期、長持ちしねえからな。二人暮らしなら、あんまり多くは買えねえだろうが……」
アルバーノが申し訳なさと気遣いの混じった顔をすると、コルネリアはふわりと優雅に微笑んだ。
「そのご心配には及びませんわ。お肉、少し多めにいただいてもよろしいでしょうか?」
コルネリアが荷袋の口を開け、アルバーノから切り分けられた肉を受け取る。
彼女がそっと袋の中に手を差し入れ、静かに魔力を練り上げると、指先から純度の高い冷気が発生した。
魔法によって生み出された冷気は、瞬く間に肉の表面を薄い氷の膜で覆い尽くし、カチカチの完全な冷凍状態へと変化させたのである。
「な、なんだこりゃあ! 一瞬で肉が凍っちまったぞ!」
「私は少しばかり氷の魔法が使えますの。これなら、たくさん買い込んでも鮮度を落とさずに保存できますわ」
魔法を生活の知恵として使いこなすコルネリアの姿に、アルバーノは目を丸くして感心しきりだった。
上質なお肉をたっぷりと買い込み、二人はミザリィとアルバーノの元気な声に見送られながら、街の入り口へと向かった。
冷たい雨は、まだ降り続いている。
馬留めで待っていたファノーネに荷物を積み込み、カエラムが先にコルネリアの身体をふわりと抱え上げて鞍の前の位置へと乗せた。
続いて彼自身がその後ろに跨り、コルネリアの身体をすっぽりと包み込むようにして両腕を伸ばし、手綱を握る。
「……寒くはありませんか?」
「はい。先生の体温が伝わってきますから、とっても温かいですわ」
コルネリアが少しだけ背中を預けるようにして振り返ると、カエラムの唇が彼女の耳元に触れそうなほど近い距離にあった。
雨の鬱陶しさを遮る厚手の外套の中で、二人は心地よい密着感を共有しながら、ファノーネの静かな足取りに揺られて森の小道を進んでいく。
木々が雨を弾く音だけが響く帰り道――。
診療所まであと半分というところまで来た時、コルネリアがふと視線を森の斜面へと向け、小さく息を呑んだ。
「先生、止まってください! あそこの木の根元に、何かが……!」
彼女の切羽詰まった声に、カエラムはすぐさま手綱を引いてファノーネの歩みを止めた。
二人が馬から降りて、鬱蒼と茂るシダの葉と太い木の根の隙間に近づいていくと、そこには小さな命が丸くなるようにして倒れていた。
「……子犬、ですね」
カエラムが静かに膝をつく。
本来ならば雪のように白くふわふわであるはずの毛並みは、跳ねた泥でひどく汚れ、無惨に肌に張り付いている。
まだ生まれてそれほど経っていないであろうその小さな体は、冷たい雨に打たれ、体温を奪われて激しくガタガタと震えていた。
さらに、後ろ足を不自然に引きずったような痕跡があり、自力で立ち上がることができない状態のようだった。
二人の気配に気づき、泥まみれの子犬が怯えたように顔を上げた。
震える瞼の奥から覗いたその瞳は、雨の森の薄暗さの中でもハッとするほど美しく透き通った、深いマリンブルーの色をしていた。
「キュー……ッ」
助けを求めるような、弱々しくかすれた鳴き声。
その痛ましい姿に、コルネリアの胸がきゅっと締め付けられた。
「こんなに冷たい雨の中で……お可哀想に。先生、放ってはおけませんわ」
「ええ、当然です。すぐに連れて帰りましょう」
命を救う医師と助手として、この小さな命を見捨てるという選択肢は最初から存在しなかった。
カエラムは往診鞄の中から厚手の布を取り出し、子犬の泥まみれの身体をしっかりと包み込んだ。
暴れるだけの力も残っていなかった子犬は、温かい布に包まれると、安心したように目を閉じてカエラムの手に身を委ねた。
「私が抱いていきますわ。ファノーネ、急いでお家へ帰りましょう」
コルネリアが子犬を胸の奥深くに抱きかかえ、自身の体温を分け与えるように外套で雨風を遮る。
再びファノーネの背に跨った二人は、行きよりも少しだけ速度を上げ、雨の降りしきる森の奥の診療所へと急ぎ足で向かっていった。
冷たい雨の森で見つけた、マリンブルーの瞳を持つ小さな命。
二人の穏やかな日常に、また新たな温かな家族の気配が静かに訪れようとしていた。




