128 ホタテの旨味がふわっと広がりますわ
雨粒を纏って宝石のように輝く紫陽花の絶景をたっぷりと堪能した後、カエラムとコルネリアは、しとしとと降り続く初夏の雨の中をファノーネの背に揺られて街へと到着した。
街の入り口にある屋根付きの馬留めにファノーネを預け、二人は一つの大きな傘を差して、雨に濡れて艶を帯びた石畳の通りを歩き出した。
「少し冷たい雨ですね。街を見て回る前に、まずは温かいもので遅めの昼食にしましょうか」
「はい、賛成ですわ。先生のお腹の音も、先ほどから微かに聞こえておりましたし」
「……おや。聞かれていましたか。これはお恥ずかしい」
カエラムが照れ隠しのように丸メガネの位置を直し、コルネリアがくすくすと笑う。
二人が向かったのは、路地裏にひっそりと佇む馴染みの食堂――野うさぎの台所であった。
重厚な木の扉を押し開けると、冷え切った外の空気が一変する。
店内には薪が爆ぜる心地よい音と、厨房から立ち上る温かな湯気、そして出汁とバターが混ざり合った至福の香りが満ちていた。
「いらっしゃい……おや! カエラム先生に、コルネリアのお嬢さんじゃないか。雨の中、よく来てくれたね!」
厨房の奥から顔を出した店主のヨーリフが、豪快でありながらもどこか優しい声で二人を迎え入れた。
その横では、妻のエンリが目を細めて柔らかな笑みを浮かべている。
「こんにちは、ヨーリフさん、エンリさん。雨で少し身体が冷えてしまいまして。お二人の美味しい料理で温まりに来ました」
カエラムが穏やかに微笑み、コルネリアの背中をそっと庇うようにして席へと案内する。
その思いやりに満ちた自然な振る舞いを見て、ヨーリフとエンリは顔を見合わせ、安堵するように深く目尻を下げた。
二人は、カエラムがまだ王都で心をすり減らしていた頃をよく知っている。
当時の彼は、非番の日になると、まるで息が詰まるような現実から逃げるように国境を越え、深い疲労と暗い影をその瞳に落としたまま一人でこの店を訪れていた。
出されたスープをただ虚ろな目で見つめ、義務のように腹に流し込むだけの孤独な青年――。
すべてを諦め、己の感情を殺していたあの頃の彼から、今の姿は到底想像もつかない。
愛する女性を隣に伴い、慈しむように微笑むカエラム。
彼が背負っていた呪縛が完全に解け、心からの安らぎと帰るべき場所を得たのだということが、二人の親のような年齢の店主たちには痛いほどに伝わり、ただただ嬉しかった。
「今日は冷えるからね、とびきり美味くて温まるもんを食わせてやるからな! ゆっくりしていきな」
ヨーリフが腕まくりをして調理に取り掛かり、やがて二人の前に運ばれてきたのは、今がまさに旬のホタテを使ったクリームコロッケをメインにした昼食だった。
きつね色に揚げられた大ぶりのコロッケにナイフを入れると、サクッという軽快な音と共に、中から湯気を立てて濃厚なホワイトクリームがとろけ出した。
一口頬張れば、滑らかなクリームの深いコクの中に、肉厚なホタテの強い甘みと海の旨味がぎっしりと詰まっている。
「……なんて美味しいのでしょう! 衣はサクサクなのに、中のクリームがお口の中でとろけて、ホタテの旨味がふわっと広がりますわ」
コルネリアが頬に手を当てて感動の声を漏らすと、カエラムも深く頷きながらコロッケを味わった。
「ええ、素晴らしい揚げ加減です。そして……付け合わせのこの野菜も、見事ですね」
カエラムが視線を向けたのは、メインの隣に添えられた色鮮やかな焼き野菜――太く瑞々しいアスパラガスと、甘みの強い小さなトマト、そしてさっぱりとした酸味が嬉しい紫キャベツのマリネだった。
アスパラガスを噛むと、大地の水分が弾けるように口の中に広がる。
クリームコロッケの濃厚さを、紫キャベツの心地よい酸味がすっきりと洗い流してくれた。
「この力強い野菜の味……間違いない。イザークさんが育てたお野菜ですね」
「本当ですわ。イザークさんの愛情がたっぷりと詰まった土の恵みが、ヨーリフさんたちの素晴らしい腕によって、こんなにも美味しい一皿になっているのですね」
農夫のイザークが真摯に土と向き合い、その恵みを街の職人たちが受け継いで形にする。
目に見えない人々の温かい繋がりを舌の上で確かに感じ取りながら、二人は心も身体もぽかぽかと温まる昼食を綺麗に平らげた。
――食堂を後にした二人は、再び一つの傘を寄り添うように差しながら、次なる目的地であるトコトコベイクへと足を向けた。
可愛らしい木製の看板が掛かった扉を開けると、小麦が焼ける甘く香ばしい匂いがふわりと全身を包み込んだ。
雨の日のパン屋は、晴れの日以上にその香りが濃く感じられる。
「いらっしゃいませー! あっ、カエラム先生とコルネリアさんだ!」
「雨の中、わざわざ来てくれてありがとうね!」
カウンターの奥から、にんじん色の髪の兄――ポポと、トマト色の髪の妹――ココが、元気いっぱいの笑顔で飛び出してきた。
「こんにちは、お二人とも。今日はお休みの日なので、明日の朝食用のパンを買いに来たのですよ」
コルネリアが微笑むと、双子のハーフリングは「任せて!」と胸を張った。
「今日はね、イザークのおじいちゃんがとびきり美味い夏野菜を卸してくれたから、新作がたくさんあるんだ!」
ポポの言葉通り、棚には色とりどりの野菜を使った宝石のようなパンがずらりと並んでいた。
二人が選んだのは、旬の真っ赤なトマトと厚切りのベーコンを乗せ、香草の油でカリッと焼き上げたフォカッチャ。
そして、一口かじればコーンの自然な甘みがいっぱいに広がる、ふんわりとした黄色い丸パン。
さらに、夏野菜のナスと、スパイシーな風味付けがされた肉厚のソーセージを挟み込んだ、食べ応えのある総菜パンである。
「どれも本当に美味しそうです。明日の朝ごはんが、今から待ち遠しくて仕方がありませんわ!」
紙袋にたっぷりと詰められたパンを受け取りながら、コルネリアは雨の鬱陶しさなど完全に忘れたように満面の笑みを浮かべた。
「また来てねー!」
双子たちの明るい声に見送られ、二人はパン屋を後にした。
外はまだ、しとしとと冷たい初夏の雨が降り続いている。
しかし、一つの傘の下で肩を寄せ合う二人の間には、美味しい食事と街の人々の優しさによってもたらされた、確かな温もりが満ちていた。
「さて、お腹も満たされ、明日の朝食も手に入れました。次はどこへ行きましょうか?」
カエラムが傘を持つ手を少し傾け、彼女の肩が濡れないように庇いながら優しく問いかける。
「はいっ! せっかくですから、雨の日でもゆっくり見られるようなお店へ行きたいですわ」
弾むような声で答えるコルネリアの手を、カエラムが空いた片手でそっと握りしめる。
雨粒が石畳を叩く静かな音の中、二人のささやかで幸せな街でのデートは、まだまだ終わらないのだった。




