126 私たちは、その……恋人、なのですよね?
夜の帳がすっかり下り、森が静寂な闇に包まれる頃――。
温泉で肥料作りの疲労をさっぱりと洗い流したカエラムとコルネリアは、湯上がりの心地よい火照りを残したままキッチンへと立っていた。
開け放たれた窓からは初夏の夜特有の涼やかな風が入り込み、ランプの炎を微かに揺らしている。
二人の今夜の目当ては、午前中にグリンダが牧場から届けてくれた特製のチーズ入りソーセージだった。
「グリンダさんは、かまどの火で炙るのが一番だと言っていましたね」
「ええ。あまり強火にしてしまうと、中まで火が通る前に外の皮が破れて、せっかくのチーズが流れ出てしまいますから。弱火でじっくりと育てていきましょう」
カエラムが網の上に乗せたソーセージを、火ばさみを使って慎重に転がしていく。
しばらくすると、張りのある腸詰めの皮が熱で引き締まり、表面にふつふつと脂が滲み出してきた。
パチッ、と小さな音を立てて皮の一部が弾けると、そこから濃厚な香りを放つ溶けたチーズがとろりと顔を覗かせた。
燻製の香ばしい匂いと、豚肉の力強い脂、そして熱々のチーズの香りが混ざり合い、空腹の胃袋をこれでもかと刺激してくる。
その間に、コルネリアは手早く夕食のもう一品――箸休めとなるおつまみの調理に取り掛かっていた。
「ソーセージがとても濃厚なお味でしょうから、さっぱりとしたお野菜を合わせたいと思いますわ」
コルネリアは、菜園で収穫したばかりの柔らかな春キャベツを、あえて包丁を使わずに手で一口大にちぎっていく。
手でちぎることで断面が粗くなり、味がよく馴染むのだ。
そこへ、水分をたっぷりと含んだ新玉ねぎの薄切りを加え、ほんの少しの塩を振って軽く揉み込み、野菜の甘みを引き出しつつ余分な水分を抜いていく。
小鉢を用意し、爽やかな酸味のある果実酢、プチプチとした食感が楽しい粒マスタード、そして風味をまとめるための少量の蜂蜜を入れてかき混ぜ、特製のハニーマスタードドレッシングを作った。
水気をしっかりと絞った春キャベツと新玉ねぎにそのドレッシングを回しかけ、全体をさっくりと和えれば、春キャベツと新玉ねぎのハニーマスタードマリネの完成である。
「さあ、ソーセージも良い焼き加減です。エールもよく冷えていますよ」
円卓に熱々のソーセージと鮮やかな緑色のマリネを並べ、昨夜の残りのエールを二つのグラスに注ぎ分ける。
「今日も一日、お疲れ様でした。乾杯」
カエラムの落ち着いた声とともに、二つのグラスが心地よい音を立てて触れ合った。
冷たいエールで喉を潤した後、二人はさっそく焼き立てのソーセージにナイフを入れた。
パリッという音と共に皮が弾け、中から肉汁と溶けたチーズが雪崩のように溢れ出す。
一口頬張れば、粗挽きの豚肉のガツンとした旨味と、濃厚でコクのあるチーズの塩気が口の中で爆発し、思わず感嘆の吐息が漏れた。
「……これは、本当に美味しいですわ! お肉の味がとても濃くて、チーズのまろやかさが絶妙に絡み合っています」
「ええ、牧場の特製品というだけあって素晴らしい完成度です。これはエールが進んで困ってしまいますね」
カエラムも満足げに目を細め、グラスを傾ける。
そして、濃厚なソーセージの後にコルネリアが作ったマリネを口に運んだ。
手でちぎった春キャベツはシャキシャキとした食感を残しており、新玉ねぎの甘みがマスタードの爽やかな辛味と酢の酸味によって見事に引き立てられている。
ほんのりと香る蜂蜜の優しい甘さが、口の中に残っていた豚肉の脂をすっきりと洗い流してくれた。
「このマリネ、最高のおつまみですね。ソーセージの重さを完璧にリセットしてくれます。いくらでも食べられそうだ」
「ふふっ、良かったです。今日は堆肥作りなど力仕事もありましたから、たくさん召し上がってくださいね」
美味しい料理と冷たいエール。
そして、今日一日の出来事を語り合う穏やかな時間。
ジェドのアドバイス通りに作った肥料がどう発酵していくか、ファノーネがりんごを頬張っていた愛らしい姿など、とりとめのない会話を交わしながら、二人は心ゆくまで初夏の晩酌を楽しんだ。
――やがて食後の片付けを終え、診療所内のランプの火が落とされる。
月明かりだけが差し込む薄暗い室内で、二人は就寝の準備を整えた。
壁際に鎮座しているのは、昨夜コルネリアの閃きによって完成した、二つの寝台をぴったりとくっつけた広大な就寝スペースである。
しかし今夜、コルネリアは昨日のようにカエラムの腕の中へとすぐには飛び込まず、自分の陣地である寝台の端の方にぽつんと座り、膝を抱えるようにして少しだけモジモジとしていた。
「……ネリー? どうしましたか? なんだか随分と遠くにいるようですが」
寝台の反対側に腰を下ろしたカエラムが、不思議そうに首を傾げる。
コルネリアは視線を彷徨わせ、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「あの……私、今朝の先生のお顔を思い出して、少し反省したのです。私が先生にくっついて眠ることで、先生は一晩中、理性との戦いで大変な思いをされて……げっそりと疲れてしまわれるのですよね」
その言葉に、カエラムは図星を突かれたように小さく咳払いをした。
「そ、それは……確かに楽な試練ではありませんが、私が勝手に我慢しているだけですから。あなたが気にする必要は……」
「でも、先生が苦しい思いをされるのは、私も嫌なのです」
コルネリアはぎゅっと自身の寝間着の裾を握りしめ、何かを決意したように大きく息を吸い込んだ。
そして、潤みを帯びたペリドットの瞳で、カエラムを真っ直ぐに見つめた。
「あの……お聞きしてもよろしいでしょうか。私たちは、その……恋人、なのですよね?」
「……ええ。もちろんそうです。誰が何と言おうと、あなたは私のただ一人の愛しい恋人ですよ」
カエラムが真剣な表情で頷くと、コルネリアの頬がみるみるうちに真っ赤に染め上がっていった。
彼女は消え入りそうな声で、更に言葉を紡いだ。
「そ、それなら……その、そのようなことをするのも……恋人同士なら、良いのではないのでしょうか……?」
「――――っ!?」
極めてピュアで――しかし、大人の男にとってはあまりにも破壊力が高すぎる、直球の大胆な問いかけ。
その瞬間、普段はどんな緊急事態でも冷静沈着なはずのカエラムの思考回路が、完全にショートした。
「先生が毎晩、そんなに苦しい思いをして、疲れてしまわれるくらいなら……私、先生になら、ちっとも嫌ではありませんわ。むしろ……」
「ま、待ってください! ストップです、ネリー!」
カエラムは顔を真っ赤に茹で上げ、ひどく慌てた様子で両手を前に突き出した。
彼のアンバーの瞳は激しく動揺して左右に泳ぎ、言葉はかつてないほどにしどろもどろになっている。
「あ、いや、その……もちろん、何も問題はないのでしょうが! そういうことではなくてですね……っ」
カエラムは自身の丸メガネを乱暴に外し、片手で顔を覆って天を仰いだ。
大きな息を何度も吐き出し、必死に崩壊しかけた理性をかき集めている様子は、いつも大人の余裕を漂わせている彼からは想像もつかないほど、取り乱していて……不謹慎ながらも、とても可愛らしかった。
しばらくして、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻したカエラムは、熱を持った顔をコルネリアへと向けた。
彼の瞳には、照れ隠しの色とともに、真摯な愛情が宿っていた。
「……あなたのその真っ直ぐな言葉は、本当に嬉しくて、泣きたくなるほど愛おしいです。ですが……」
カエラムはゆっくりと手を伸ばし、寝台の端にいたコルネリアの手をそっと取って、自身の隣へと優しく引き寄せた。
「あなたは、私がこれまでの生涯で初めて、心の底から深く愛した女性です。だからこそ……私は、あなたとの関係を少しも雑にしたくないのです」
彼の大きく温かい手が、コルネリアの頬を大切に包み込む。
「ただ一線を越えるだけなら、簡単なことかもしれません。ですが、私は……手と手を繋ぐ時のどきりとするような感覚や、こうして隣で眠れることの幸福感、そして……触れたくても触れられない、この甘くて少しもどかしい距離感を、今はもう少しだけ、ゆっくりと堪能したいのです」
それは、彼がどれほどコルネリアという存在を大切に想い、慈しんでいるかという、何よりの証明だった。
「それに……一度でもその境界線を越えてしまったら、私はもう二度と、あなたを手放して元の距離に戻ることはできないでしょうから……理性のタガが完全に外れてしまうのが、自分でも恐ろしいのです」
最後の方は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした彼の本音を聞いて、コルネリアの胸の奥が甘いものでいっぱいになった。
自分はこれほどまでに、深く、大切に愛されているのだ。
「先生……」
コルネリアはもう迷うことなく、彼の広い胸の中へと飛び込み、その背中に腕を回してぎゅっと抱きついた。
「わかりました。先生がそこまで私を大切に想ってくださっているのなら……私も、この甘くて少し苦しい距離感を、先生と一緒にめいっぱい楽しみますわ」
腕の中にすっぽりと収まった彼女の愛らしさに、カエラムはついに降参したように苦笑を漏らし、彼女の背中を強く抱きしめ返した。
ジョリッとした無精髭が彼女の額に触れ、コルネリアがくすくすと笑い声を上げる。
「ですが、ネリー。今夜のあなたの発言は、本当に危険でした。あと一歩で私の理性が吹き飛ぶところでしたからね」
「ふふっ、ごめんなさい。でも、慌てる先生のお顔、少しだけ新鮮で素敵でした」
「……このお転婆な助手を、どうしてくれましょうか」
カエラムはため息混じりにそう呟くと、彼女の顎を指先でそっとすくい上げた。
そして少しだけ悪戯っぽく微笑み、彼女の柔らかい唇に優しい口づけを落とす。
「おやすみなさい、私の可愛いネリー」
「おやすみなさいませ、先生。明日もまた、美味しい朝ごはんを作りますね」
月明かりが照らす、二つが一つになった広い寝台。
互いの深い愛情を胸に抱きながら、二人は心地よい体温を分け合い、甘く穏やかな眠りの世界へと静かに落ちていくのだった。




