121 私、絶対に忘れません
初夏の夜明け前、森はまだ青白い静寂に包まれていた。
木々の葉から朝露が静かに土へと落ちる微かな音だけが響く中、診療所の扉が切羽詰まった様子で叩かれた。
「カエラム先生! コルネリアさん! 起きていらっしゃいますか!」
ただならぬ声の響きに、二人はすぐに身支度を整えて扉を開けた。
そこに立っていたのは、べウッド村から走ってきた若い職人だった。
雨季の間のぬかるんだ道を急いできたのだろう、彼の足元は泥にまみれ、肩で激しく息をしている。
「ハリソンさんが……今朝、息を引き取りました」
覚悟していたはずの言葉だった。
しかし――死という覆しようのない現実を突きつけられた瞬間、コルネリアの足からスッと力が抜け、視界がわずかに揺らいだ。
カエラムは静かに頷き、往診鞄を手に取った。
二人はすぐさまファノーネの背に跨り、霧が立ち込める初夏の森をべウッド村へと向かって駆け出した。
――村の奥にある小さな工房に到着すると、すでに数人の村人が集まり、悲痛な面持ちで寝室を囲んでいた。
村人たちが道を譲り、二人が寝台の傍らへ歩み寄る。
そこに横たわるハリソンは、まるでただ深い眠りに落ちているだけのように穏やかな顔をしていた。
長い間彼を苦しめていた胸の痛みや息苦しさの痕跡は微塵もない。
薄く開かれた唇の端はわずかに持ち上がり、最愛の妻が待つ陽だまりの記憶へ辿り着いたかのような、安らかな表情だった。
カエラムは静かな足取りで寝台に近づき、首にかけていた聴診器をハリソンの胸に当てた。
薄暗い工房の中で、カエラムは目を閉じ、ただじっと耳を澄ませる。
数分前までそこにあったはずの、老いた心臓の鼓動。
しかし今は、どこまでも深く冷たい沈黙だけが返ってくる。
カエラムはゆっくりと聴診器を外し、ハリソンの胸に掛けられた毛布を首元まで掛け直した。
そして、傍らで見守る村人たちとコルネリアに向かって、深く頭を下げた。
「……ご臨終です」
医師として命の終焉を宣言するその声は、低く――しかし、確かな重みを持っていた。
どれほど手を尽くしても、自然の摂理には抗えない。
命の灯火が消える瞬間をただ見届けるしかないという、医療に携わる者としての残酷な無力感。
カエラムの広い背中から伝わってくるその静かな痛みに、コルネリアは両手で顔を覆い、こらえきれずに涙をこぼした。
その日の午後、雨上がりの村でハリソンの葬儀が行われた。
彼の眠る棺は、村の職人たちが腕によりをかけて一晩で組み上げた、美しい白木で作られていた。
棺の周りには、色とりどりの花ではなく、彼が長年彫り続けてきた無数の木彫りの作品が飾られた。
森の動物たち、笑う子供の顔、そして鳥たち。
どれも丸みを帯び、彼の温かい人柄がそのまま形になったような素朴な作品ばかりだった。
村人たちは次々と棺の前に進み出て、別れを告げていく。
涙を流す者もいれば、「あの頑固親父も、ようやく奥さんのところへ行けたな」と寂しそうに笑う者もいた。
悲しみの中にも彼がこの村で生きた確かな足跡と、遺していった優しい記憶がそこかしこに溢れている。
木材の清々しい香りに包まれた、彼にふさわしい、温かく穏やかな見送りの儀式だった。
――葬儀が終わり、村人たちが少しずつ家路につき始めた頃。
工房の片付けを手伝っていた二人のもとへ、村長が一つの小さな白木の箱を持って近づいてきた。
「先生、コルネリアさん。これを受け取ってやってください」
村長から手渡された箱は、手のひらに乗るほどの小さなものだった。
「ハリソンさんが、最期の数日、起き上がれない体を無理に起こしてまで磨き続けていたものです。『これが仕上がったら、あの二人に渡してほしい』と託されていました」
その言葉に、コルネリアの胸がきゅっと締め付けられた。
あの苦しい呼吸の中、彼は最期の力を振り絞って木を削っていたのだ。
――二人は村長に深く頭を下げ、その箱を大切に胸に抱いて診療所へと戻っていった。
西の空が深い群青色へと変わり、診療所の中に夜の静寂が訪れる。
ランプの柔らかな光だけが照らす円卓の上に、二人は白木の箱をそっと置いた。
カエラムがゆっくりと蓋を開ける。
中に入っていたのは、丁寧に磨き上げられた二羽の小鳥の木彫りだった。
二羽の鳥は、互いの体温を分け合うように、ぴったりと身を寄せ合っている。
それはハリソンと亡き妻の仲睦まじい姿のようでもあり――これからを生きていくカエラムとコルネリアの姿を象徴しているようでもあった。
滑らかに整えられた木肌からは、粗削りな部分が一切消え去っている。
息をするのも辛かったはずの彼が、どれほどの時間をかけてこの表面を磨き上げたのか。
そこに込められた、遺していく者への深い祈りと優しい想いが、手のひらを通して痛いほどに伝わってくる。
「……本当に、いなくなってしまったのですね」
コルネリアの唇から、震える声がこぼれ落ちた。
二羽の小鳥を見つめていると、彼が最後に言った言葉が頭の中で繰り返される。
――隣にいるその人を、今この瞬間に、めいっぱい愛しなさい。
もう二度と、あの工房で穏やかに笑う彼に会うことはできない。
死という絶対的な喪失感と、彼が残してくれた想いの温かさに耐えきれず、コルネリアの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
彼女は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。
カエラムは静かに立ち上がり、彼女の背後に回ると、その華奢な肩を自身の両腕で力強く包み込んだ。
彼の温かい胸に背中を預けながら、コルネリアは嗚咽を漏らし続ける。
「泣いていいのです。彼を想って流す涙は、決して無駄なものではありませんから」
カエラムの低い声が、彼女の耳元に優しく降り注ぐ。
彼はコルネリアの手を取り、その手に握られた二羽の木彫りの小鳥ごと、そっと包み込んだ。
「……彼の肉体は、今日、確かにこの世界から消え去りました。寿命という定めからは、何人たりとも逃れることはできません」
カエラムの言葉は、現実を突きつけるように静かで、残酷だった。
しかし、彼が彼女を抱きしめる腕の力には、それを補って余りあるほどの熱がこもっている。
「ですが、ネリー。見てください。彼が最期に削り出したこの小鳥には、命が宿っているように温かい。彼が私たちに遺してくれたこの想いは、決して消えたりはしないのです。私たちが覚えている限り、彼はこの木彫りの中で、永遠に生き続けます」
その言葉に、コルネリアはゆっくりと顔を上げた。
涙で滲む視界の先には、ランプの光を受けて優しく艶めく、二羽の小鳥の姿があった。
死は、すべてを無に帰すわけではない。
人が生きた証は、残された者の心の中に、そして形あるものの中に、確かに受け継がれていく。
ハリソンが身をもって教えてくれたその真実を、コルネリアは自身の魂の奥底へと深く刻み込んだ。
「……はい。私、絶対に忘れません。ハリソンさんのことも、奥様のことも……そして、先生と過ごすこの時間のことも」
コルネリアはカエラムの手に自身の指を絡め、振り返って彼を見上げた。
泣き腫らしたペリドットの瞳には、悲しみだけでなく、前を向いて生きていくという確かな光が宿っている。
カエラムは彼女の額にそっと唇を落とし、静かに頷いた。
「ええ。彼が教えてくれた通り、言葉を惜しまず、手を取れる時に、しっかりと手を握りましょう。私たちの命の時間を、決して後悔のないように」
夜の森を抜ける初夏の風が、窓を少しだけ揺らしていく。
命の終わりを見届けた深い切なさと喪失感。
しかしそれ以上に、残された温もりが二人の心を強く結びつけている。
寄り添う二羽の木彫り鳥に見守られながら、二人は互いの存在の尊さを確かめ合うように、いつまでも静かに抱きしめ合っていた。




