120 玉ねぎと青豆のスープですわ
初夏の森に、静かな長雨が降り注いでいた。
分厚い灰色の雲が空を覆い、絶え間なく落ちる雨滴が木々の青葉を打ち据える。
カエラムとコルネリアは、雨除けの厚手の外套を深く被り、ファノーネの背に揺られてべウッド村へと向かっていた。
木材と木工品が特産であるこの村も、今日ばかりは外で木を挽く活気ある音は響いていない。
雨に濡れた木造の家屋や工房からは、切り出された木材特有の甘く清々しい香りが、いつもよりさらに色濃く漂っていた。
二人が目指すのは、村の最も奥まった場所にひっそりと佇むハリソンの家である。
前回の往診から数日が経過していたが、彼が患っている心臓の機能はいよいよ限界に近づいており、予断を許さない状況が続いていた。
工房の引き戸を静かに開けて中に入ると、薄暗い室内には古い木の匂いだけが沈殿している。
部屋の奥にある寝台で、ハリソンは薄い毛布を胸まで掛け、浅く――そして、不規則な寝息を立てていた。
起き上がって小刀を握る気力はもう彼には残されておらず、一日の大半をこうしてまどろみの中で過ごすようになっている。
カエラムは外套を脱いで傍らの椅子に置き、音を立てずに寝台へと近づいた。
往診鞄から使い慣れた聴診器を取り出すと、先端の冷たい金属部分を自身の掌の熱で温めてから、ハリソンの痩せ細った胸元へとそっと当てる。
静寂の中、ゴム管を通してカエラムの耳に届くのは、長い年月をかけて休むことなく働き続け、今まさにその役割を終えようとしている老いた心臓の音だった。
「……随分と、音が遠くなっています。脈も非常に弱く、間隔が一定ではありません」
カエラムは聴診器を首から外し、丸メガネの奥のアンバーの瞳に深い憂いの色を浮かべた。
コルネリアもまた、痛む胸を抑えるようにして両手で自身の衣服の胸元を握りしめた。
彼女には医療の専門的な知識はないが、目の前で静かに細くなっていくハリソンの命の気配を、肌でひしひしと感じ取っていた。
カエラムが今できるのは、彼が呼吸のたびに感じる苦しい感覚を取り除き、最期の時まで痛みを和らげるための薬草を処方することだけであった。
――カエラムが薬の調合を終えた頃、窓の外の雨音に誘われるようにして、ハリソンがゆっくりと重い瞼を開いた。
「……先生、コルネリアさん。こんな雨の中を、すまないね」
ハリソンの声は以前よりもさらにしゃがれ、息を吸うだけでも体力を消耗しているのが分かる。
――しかし、その深い皺に囲まれた瞳は、死への恐怖に怯えることなくどこまでも穏やかに澄み切っていた。
「外は、良い雨が降っているね……土と、初夏の葉の匂いがする」
ハリソンは窓の方へと視線を向け、細く息を吐き出した。
彼は少しだけ目を細め、遥か昔の美しい記憶を手繰り寄せるように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……こんな静かな雨の日は、よく、妻が温かいスープを作ってくれたんだ。村の畑で採れた青豆と玉ねぎを使ってね」
亡き妻との思い出。
太陽のように明るく、この村の活気を誰よりも愛していたという彼女の姿が、ハリソンの脳裏に鮮やかに蘇っているのだろう。
「でも、あいつはおしゃべりに夢中で、いつも鍋の火加減を見るのを忘れるんだ。だから、スープに入っている玉ねぎは、いつも少しだけ焦げている。私が『また焦がしたのか』と文句を言うと、あいつは『香ばしくて美味しいでしょ』って、大きな口を開けて笑うんだ」
ハリソンの目尻が、愛おしさに緩む。
「……あの、少し苦くて、だけどとても甘い、焦げた玉ねぎのスープを……もう一度だけ、食べたいな」
それは、最期の時を迎えようとしている老職人の、あまりにもささやかで、切実な願いであった。
その言葉を聞いた瞬間――コルネリアは迷うことなく立ち上がった。
「私がお作りいたします。少しだけ、待っていてくださいね」
コルネリアはハリソンに優しく微笑みかけると、工房に併設された小さな台所へと向かった。
彼の命の灯火が消える前に、一番幸せだった頃の記憶をもう一度だけ味わわせてあげたい。
その一心で、彼女は腕まくりをしてかまどに火を入れた。
村へ入る際、顔なじみになった農夫から分けてもらっていた初夏の青豆と、水分をたっぷりと含んだ新玉ねぎを荷袋から取り出す。
まずは新玉ねぎを極めて薄く切り揃える。
熱した平鍋に少量の油を敷き、そこへ玉ねぎを投入して弱火でじっくりと炒めていく。
玉ねぎが透き通り、自然な甘みが最大限に引き出されたところで、コルネリアはあえて火力を強めた。
木べらでかき混ぜる手を止め、玉ねぎの縁に意図的に火を当てる。
ジュッという音と共に、甘い香りが少しずつ香ばしい匂いへと変化していく。
玉ねぎの持つ極上の甘みを残しつつ、おしゃべりに夢中になってうっかりつけてしまったような――愛嬌のある香ばしい焦げ目を絶妙な加減でつけていく。
焦げ茶色に色づいた玉ねぎの甘苦い匂いが台所に広がったところで、温めておいた透明な野菜の出汁を一気に注ぎ入れた。
鍋の中が静かに泡立つ中、さやから取り出したばかりの鮮やかな青豆を加える。
弱り切ったハリソンの胃腸でも負担なく飲み込めるよう、青豆は少しだけすり鉢で粗く砕き、スープに自然なとろみがつくように工夫を凝らした。
青豆の爽やかな緑の風味と、焦げた玉ねぎの香ばしくも深い甘みが完全に溶け合い、素朴でありながらも心と身体の芯まで温めるスープが完成した。
湯気を立てる木製の深皿を両手で持ち、コルネリアは静かに寝台へと戻った。
カエラムがハリソンの上半身を支えるようにしてゆっくりと抱き起こし、背中に柔らかな布を当てて体勢を安定させる。
「ハリソンさん。奥様の味には遠く及ばないかもしれませんが……玉ねぎと青豆のスープですわ」
コルネリアが木の匙でスープをすくい、少し冷ましてから彼の口元へと運ぶ。
漂ってくるその香りを嗅いだ瞬間、ハリソンの表情がハッと驚きに変わった。
彼はゆっくりと口を開き、スープを飲み込んだ。
丁寧にすり潰された青豆の優しい食感と、出汁の旨味。
そして何より、口いっぱいに広がる、焦げた玉ねぎの絶妙な香ばしさと奥深い甘み。
「…………ああ」
一口飲み込んだハリソンの深い皺の刻まれた目尻から、温かい大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「これだ……間違いない。あいつが隣で笑っていた、あの頃の味だ。少し焦げていて、苦くて……どうしようもなく、甘い」
スープの味が、彼を最も満ち足りていた陽だまりのような日々へと完全に連れ戻していた。
涙を流しながらも、彼の顔には、この世のすべての幸福を両手で抱え込んだような、深く穏やかな笑みが浮かんでいた。
コルネリアもまた、彼の口元へ次の一口を運びながら、自身の視界が涙で滲んでいくのを止めることができなかった。
器のスープを半分ほど飲んだところで、ハリソンは満足そうに小さく息を吐き、もう十分だと首を横に振った。
カエラムが再び彼を寝台に静かに横たわらせる。
スープの温かさと、最愛の妻の記憶に触れたことで、ハリソンの顔色には少しだけ血の気が戻り、呼吸も先ほどより穏やかなものになっていた。
彼はベッドの傍らで自分を優しく見守り、悲しみを堪えるようにして互いに寄り添い合っているカエラムとコルネリアを、静かな瞳で真っ直ぐに見つめた。
「先生、コルネリアさん……あんたたちには、本当に感謝している。私の最期の時間を、こんなにも温かいものにしてくれた」
「私たちは、医師として当然のことをしたまでです」
カエラムが静かに答えると、ハリソンはゆっくりと首を振った。
「いや、あんたたちの優しさは、ただの仕事なんかじゃない。私はね、木を削ることばかりに夢中で、妻が隣にいる時間を当たり前のように思っていたんだ。もっとたくさん、あいつと一緒に笑ってやればよかったと、今になって思う」
ハリソンの声は小さかったが、遺していく者たちへの切実な想いが込められていた。
「命の時間は、自分が思っているよりもずっと、ずっと短いものだ。だから、先生、コルネリアさん。隣にいるその人を、今この瞬間に、めいっぱい愛しなさい。言葉を惜しまず、手を取れる時に、しっかりと手を握るんだ」
死を目前にした者だからこそ言える、絶対的な真実と、深海のような愛情に満ちた言葉――。
その言葉の重みに、カエラムとコルネリアは息を呑んだ。
カエラムは何も言わず、ただ自身の右手を伸ばし、傍らに立つコルネリアの手を強く握りしめた。
コルネリアもまた、彼の大きな掌の確かな熱と力強さを感じ取り、溢れそうになる涙を堪えながら、彼の手を強く握り返した。
窓の外では、初夏の雨が絶え間なく森を濡らし続けている。
静かな雨音と、冷えゆく命が最後に放った確かな温もり――。
薄暗い工房の中には、二人が決して忘れることのない、どこまでも満ち足りた静寂と愛の余韻だけが、深く、優しく流れていくのだった。
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