119 命を繋ぎ、心を温めるためのご飯を
初夏の長雨がひとときの休息を迎え、分厚い雲の切れ間から力強い陽光が真っ直ぐに降り注いでいた。
濡れた森の木々は水分をたっぷりと吸い込み、むせ返るような濃密な緑の香りを放っている。
――カエラムとコルネリアは、ファノーネの滑らかな歩みに揺られながら、深い森の奥にあるベウッド村へと往診に向かっていた。
その村は、良質な木材と熟練の職人たちが生み出す美しい木工品が特産として広く知られている。
村の入り口に差し掛かると、リズミカルに木を挽く音や、職人たちの活気ある声が初夏の風に乗って聞こえてきた。
立ち並ぶ家々や工房はすべて立派な木造で設えられており、通りを歩くだけで切り出されたばかりの木材が放つ清々しくも甘い香りが、肺の奥深くまで満たしていく。
「素晴らしい香りですわね。木々が生きている息吹を、そのまま感じられるようです」
ファノーネの背で、コルネリアが深呼吸をして微笑む。
「ええ。この村の木材は驚くほど丈夫で温かみがあると評判で、遠方の街からも家具や調度品の注文が絶えないそうです。彼らの技術は、まさに森の恵みを形にする芸術と言えるでしょう」
手綱を握るカエラムが、周囲の工房に並べられた美しい木の椅子や器を眺めながら穏やかに頷いた。
二人の目的地は、村の最も奥まった静かな場所に小さな工房を構える、木彫り職人――ハリソンの家であった。
家の中に足を踏み入れると、様々な動物や森の風景を切り取った見事な木彫りの品々が、所狭しと並べられている。
しかし、いつもなら土間に座って黙々と小刀を握っているはずの主は、今日は奥の寝台に力なく横たわっていた。
「先生……コルネリアさん。よく来てくれたね」
ハリソンがしゃがれた声で二人を迎える。
何十年も木と向き合ってきた彼の節くれだった大きな手は、職人としての確かな誇りと年月を物語っていたが、その手の甲の皮膚は薄く、ひどく冷え切っていた。
カエラムはすぐさま彼の傍らへ寄り、胸に聴診器を当てて脈と心音を静かに探る。
コルネリアはハリソンの冷えた手を自身の両手で包み込み、少しでも温もりが伝わるようにと優しくさすり続けた。
「……息苦しさは、昨日よりもマシになっていますか?」
カエラムの静かな問いに、ハリソンはゆっくりと首を横に振った。
「いや……もう、自分でもはっきりと分かるんだ。この古い心臓は、随分と前から悲鳴を上げていた。どうやら、削りすぎた木と同じで、私の命もこれ以上は修復がきかないらしい」
七十をとうに超えた老職人は、自身の命の灯火が残りわずかであることを一切の恐怖や焦りを見せることなく、どこまでも凪いだ水面のような表情で受け入れていた。
――治すことができないという現実。
医療の場においていずれ直面する避けられない命の終わりという絶対的な壁を前に、コルネリアの胸の奥は鋭い刃で薄く削られるような切なさで締め付けられた。
そんな彼女の感情を察したのか、ハリソンは手元にあった彫りかけの木材を愛おしそうに撫でながら、ゆっくりと口を開いた。
「そんな悲しい顔をしないでくれ、コルネリアさん。私はね、この村で木を削り続ける人生に、何の悔いもないんだ。特に、あいつと過ごせた時間は、私の人生の何よりの宝だった」
ハリソンの深く刻まれた皺の奥にある瞳が、遠い過去の美しい記憶を見つめるように細められる。
「私の妻はね、私のような無口で気難しい男とは正反対の、それはもう賑やかで、太陽みたいに笑う女だった。この村の木の匂いと、職人たちの活気が大好きでね」
彼が紡ぐ亡き妻の思い出に、カエラムとコルネリアは静かに耳を傾ける。
「私がしかめっ面で木と睨み合っている横で、あいつは村の畑で採れた野菜を泥だらけの手で抱えて帰ってきては『今日も良いお野菜が採れたわ!』って大声で笑うんだ。あいつの陽だまりのような笑顔を見ているだけで、私の無骨な木彫りにも、温かい命が吹き込まれるような気がしたよ」
ハリソンの呼吸が少し荒くなったのを見て、カエラムは鎮痛と呼吸を楽にする薬草の調合を始めた。
コルネリアは彼を休ませるため、「お薬が効いてくるまで、私が少しだけお食事の準備をいたしますね」と告げて、台所へと向かった。
かまどに火を入れながら、コルネリアは小さく肩を震わせた。
どれほど腕の立つ医師であっても、静かに終わりへと向かう命の歩みを根本から引き止めることはできない。
その無力さが、彼女の心に暗い影を落とそうとしていた。
――すると、背後からカエラムが静かに歩み寄り、彼女の肩にそっと手を置いた。
「……治すことができないのは、辛いですね」
カエラムのアンバーの瞳が、優しく彼女を見つめている。
「ですが、死を遠ざけることだけが医療ではありません。痛みを取り除き、残された時間を少しでも穏やかに、人間らしく過ごせるように支えること。それも、私たちの立派な役目なのです。あなたの作る温かい食事が、今の彼には何よりも必要なのですよ」
その言葉にコルネリアは顔を上げ、力強く頷いた。
「はい……私にできることを、精一杯やらせていただきます」
コルネリアが作り始めたのは、ハリソンの弱った胃腸でも負担なく飲み込める、柔らかく煮込んだ雑炊だった。
使用するのは、村で大切に育てられたふっくらとしたお米。
そして、ハリソンの妻が泥だらけの手でよく抱えていたという、初夏の瑞々しく柔らかいカブである。
すり鉢で丁寧にすりおろしたカブを出汁と合わせ、お米が原型を留めなくなるまでとろとろに煮込んでいく。
仕上げに卵を細く溶き入れ、ふんわりと全体をまとめた。
「ハリソンさん、熱いうちにどうぞ」
木の器に盛られた雑炊からは、出汁の深い香りと、カブの爽やかな甘い匂いが立ち上っていた。
ハリソンは少し震える手で木の匙を持ち、一口、また一口とゆっくりと味わっていく。
すりおろされたカブが雪のように口の中で溶け、卵と出汁の旨味が胃の粘膜を優しく保護していく。
「……ああ。大地の滋味が、冷えた身体の隅々にまで沁み渡るようだ。五臓六腑が温まるよ」
ハリソンは深く息を吐き出し、本当に心地よさそうに微笑んだ。
痛みを和らげる薬草の効果と温かく消化の良い食事によって、彼の呼吸は明らかに楽になり、顔色にも微かな赤みが戻っていた。
その穏やかな笑顔を見て、コルネリアの胸の中にあった切なさが、少しだけ温かいものへと変わっていくのを感じた。
――往診を終え、二人が村を後にする頃には、西の空が燃えるような茜色に染まり始めていた。
村人たちが家路につく生活音を背に受けながら、ファノーネの背に揺られて森の小道を進む。
少し冷たくなってきた夕暮れの風の中で、コルネリアは前に座るカエラムの広い背中に、自身の額をそっと押し当てた。
今日経験したすべての感情を噛み締めるように目を閉じていると、手綱を握る彼の手が、彼女の腕を労るように優しく撫でた。
「……ネリー」
夕闇に溶け込むような、低く落ち着いた声。
そのただ一言の響きの中に、彼が彼女に向ける絶対的な愛情と理解が込められていた。
「今日の彼は、間違いなく穏やかで満ち足りた時間を過ごしていました。彼の命の残された時間を、あなたが確かに温めたのですよ」
その言葉に、コルネリアは彼の背中の衣服をぎゅっと握りしめた。
命の終わりを見届ける悲しみは、決して消えることはない。
――しかし、その最期の瞬間に至るまでの道のりを、少しでも温かく彩ることができるのなら。
「……ええ。私、これからも先生の隣で、たくさんのお料理を作ります。命を繋ぎ、心を温めるためのご飯を」
茜色の空の下、静かに忍び寄る別れの予感という切なさを抱きながらも、二人の絆はより一層深く結びついていく。
木々の間を吹き抜ける初夏の風は、どこまでも優しく、彼らの帰り道を包み込んでいた。




