118 先生の優しさが嬉しくて、胸がいっぱいになってしまって
午前中には青く澄み渡っていた初夏の空が、午後になると突如としてその表情を硬く閉ざし始めていた。
森の木々を揺らす風が心地よい涼しさから、肌を粟立たせるような冷たく湿った突風へと変わる。
周囲の空気が急激に重みを増し、土埃と、遠くで降り始めた雨の特有の匂いが風に乗って診療所へと運ばれてきた。
「ネリー、空の様子がおかしい。強い雨が来ますよ、急いで洗濯物を取り込みましょう!」
裏庭で薬草の陰干しをしていたカエラムが、空を覆い尽くさんとする巨大な雲を見上げて声を上げた。
コルネリアもただならぬ嵐の気配を察知し、急いで籠を手に取った。
二人は協力して、干してあったシーツや衣服を次々と取り込み、急ぎ足で診療所の中へと駆け込む。
最後の一枚を取り込み、分厚い木の扉を閉めて重いかんぬきを下ろした――まさにその直後。
まるで空の底が抜けたかのような、凄まじい土砂降りの雨が診療所の屋根を激しく打ち据え始めた。
すべての窓の木戸をしっかりと閉ざし、かまどの火を確認して一息ついた時――。
閉ざされた木戸の隙間からでもはっきりと分かるほど、室内を真っ白に染め上げる強烈な閃光が走った。
直後、大気を引き裂き、大地の底から突き上げるような凄まじい轟音が二人の鼓膜を容赦なく叩き据えたのである。
「……っ!」
すぐ近くの森に雷が落ちたその暴力的な音の塊に、コルネリアの身体は激しく硬直した。
彼女は血の気を失った蒼白な顔でその場にうずくまり、両手で自身の耳を強く塞ぎ、極度の恐怖に全身を小刻みに震わせ始めた。
――かつて王都の伯爵邸にいた頃、彼女は不運な娘がいると屋敷に雷が落ちるという迷信を恐れた家族に、嵐の日は窓のない暗い部屋へと閉じ込められてきた。
逃げ場のない密室で一人震えながら聞く雷鳴は、彼女の心に深いトラウマを植え付けていた。
再び閃光が走り、地鳴りのような雷鳴が轟く。
コルネリアは床にしゃがみ込んだまま、呼吸を浅く乱し、過去の冷たい暗闇の幻影に完全に呑み込まれようとしていた――。
「ネリー!」
彼女の異変に即座に気づいたカエラムは、持っていた洗濯物の籠を放り出し、迷うことなく彼女の目の前の床に膝をついた。
彼はしゃがみ込んでいる彼女の身体を、自身の両腕で力強く抱き寄せた。
恐怖で強張った彼女の小さな背中を包み込み、彼女の顔を自身の胸の奥へと深く埋めさせる。
「大丈夫です。雷雲が遠ざかるまで、私が音も光も、すべて遮りますよ」
カエラムは彼女の耳を塞いでいた小さな両手の上に、自身の大きな掌を重ねてすっぽりと覆い隠した。
視界は彼の衣服に完全に塞がれ、耳からは彼の温かい掌の感触だけが伝わってくる。
そして何より、彼女の頬が触れているカエラムの胸の奥底からは、嵐の音をかき消すほどに力強く、規則正しい心臓の鼓動が響いていた。
一定のリズムを刻むその温かな命の音は、彼女がこの世界で決して一人ではないという事実を、何よりも雄弁に物語ってくれている。
外の世界では、森の木々が強風に煽られ、容赦のない雨と雷鳴が吹き荒れている。
しかし、カエラムの腕の中という絶対的な安全圏において、彼女の心に巣食う過去の恐怖は、彼の体温によって少しずつ確実に溶かされていった。
コルネリアは震える手を伸ばし、自らを包み込んでくれているカエラムの衣服の背中を、縋るように強く握り返した。
――やがて長い時間が過ぎ、雷鳴が遠ざかり、屋根を叩く雨音が静かなものへと変わっていった。
空気を震わせていた威圧感が完全に消え去ったことを確認し、カエラムはゆっくりと彼女の耳から手を離し、腕の力を緩めた。
「もう大丈夫ですよ。嵐は通り過ぎたようです」
カエラムの穏やかな声に、コルネリアはゆっくりと顔を上げ、安堵の息を吐き出した。
血の気が引いていた頬には少しずつ赤みが戻り、ペリドットの瞳も落ち着きを取り戻している。
「先生……申し訳ありません。私、雷の音を聞くと、どうしても昔の暗い部屋を思い出してしまって……」
「謝る必要などどこにもありません。怖いものは怖いで良いのです。ですが……」
カエラムは彼女の乱れたホワイトブロンドの髪を優しく指先で梳き、丸メガネの奥のアンバーの瞳を深く和ませた。
「あの嵐が過ぎ去るまでの暗く恐ろしい記憶を、今日から別のものに塗り替えてしまいませんか?」
「え……? 塗り替える、ですか?」
「ええ。雷の日は、とびきり甘いものを食べる特別な日ということにするのです。そうすれば、少しは気も紛れるでしょう。少し待っていてください」
カエラムは立ち上がると、白衣の袖を捲り上げ、キッチンの方へと向かっていった。
彼が取り出したのは、グリンダの牧場から届いたばかりの新鮮な卵と、濃厚なミルク、そしてたっぷりの砂糖である。
彼が作ろうとしているのは、卵の力を利用して固める、滑らかで甘いプリンだった。
まずは小さな銅鍋に砂糖と少量の水を入れ、かまどの火にかける。
砂糖が溶け、やがて縁の方から微かに煙を上げながら濃い茶色へと変わっていく。
甘く香ばしい、少しだけ焦げたような匂いが立ち上った絶妙な瞬間に少量の湯を加え、ほろ苦いカラメルソースを完成させた。
それを、用意した陶器の器の底に流し込む。
次に、ボウルに卵を割り入れ、泡立てないように細心の注意を払いながら静かに解きほぐす。
そこへ、人肌に温めたミルクと砂糖をたっぷりと加え、丁寧に混ぜ合わせる。
卵液を目が細かい布で二度濾し、極限まで滑らかな状態にしてから、カラメルソースの入った器へと静かに注ぎ入れた。
カエラムは深さのある平鍋に少量の湯を張り、そこへ器を並べて蓋をし、かまどの弱火でじっくりと蒸し焼きにする。
火加減を調整しながら、卵が硬くなりすぎず、最も滑らかな口当たりになる瞬間を見極める。
蒸し上がったプリンの熱をとり、冷たい湧き水を張った桶の中に入れてしっかりと冷やせば、甘やかな魔法の完成である。
「お待たせしました。雷の日の、特別なおやつです」
カエラムは円卓に座るコルネリアの前に皿を置き、陶器の器をひっくり返してそっと外した。
艶やかな卵の生地の上に、底に沈んでいたカラメルソースが美しく滴り落ち、皿の底へと広がっていく。
その完璧な仕上がりに、コルネリアは小さく歓声を上げた。
「まあ……なんて美しいのでしょう」
「さあ、冷たいうちにどうぞ」
コルネリアは木の匙を手に取り、柔らかなプリンの端を掬って口へと運んだ。
その瞬間――卵とミルクの濃厚なコクと深い甘みが、冷たい舌触りと共に口の中いっぱいに広がった。
そして後から、カラメルの香ばしさと微かなほろ苦さが追いかけてきて、全体の甘さを上品に引き締めている。
口の中でとろけて消えていくその食感は、まさに至福そのものであった。
「……っ」
その信じられないほどの美味しさと、何より、この甘いお菓子に込められた彼の真っ直ぐな優しさが、コルネリアの胸の奥を激しく揺さぶった。
自分が怯えているのを察し、力強く抱きしめて音と光を遮ってくれたこと。
そして、恐怖の記憶を少しでも和らげようと、甘いお菓子を一生懸命に作ってくれたこと。
過去の冷たい暗闇を、彼が今――この上なく温かく甘い光で完全に塗り替えてくれたのだ。
気づけば、コルネリアのペリドットの瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
「ネリー……!? どうしました、口に合いませんでしたか?」
カエラムが慌てて身を乗り出すと、コルネリアは首を横に振り、溢れる涙を拭いもせずに、彼に向かって花が綻ぶような満ち足りた笑顔を向けた。
「いいえ、本当に、とても美味しいです……ただ、先生の優しさが嬉しくて、胸がいっぱいになってしまって……私、本当に……幸せですわ」
涙で潤んだ瞳の奥にある、喜びと深い愛情。
カエラムは息を呑み、そして自身の焦りを隠すように小さく苦笑して、ハンカチで彼女の頬を伝う涙をそっと拭った。
「……驚かせないでください。ですが、少しでもあなたの心が安らいだのなら良かったです」
「はい。これなら……次の雷の日が、少しだけ待ち遠しくなってしまうかもしれませんわ」
「ええ。その時はまた、私がとびきり甘いものを作りますよ。約束です」
窓の外では嵐が去った後の静かな雨が、森の木々を優しく洗い流している。
恐怖の記憶が、彼の絶対的な温もりと甘いプリンの味によって完全に塗り替えられた穏やかな午後――。
甘い魔法がとろける円卓の向こうで、互いを慈しむ二人の心は、雨上がりの空のようにどこまでも澄み渡り、深く優しく結びついていくのだった。




