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冤罪で追放された伯爵令嬢は、森の奥の診療所で天才医師の胃袋を掴み、愛されながら幸せなスローライフを満喫します  作者: 白月つむぎ


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116 私だって、たまには……我慢できなくなることもあるのですわ

 一点の曇りもない高く澄み渡った空から、初夏の力強い陽光ようこうが森の深淵しんえんまで真っ直ぐに突き抜けていた。

 木々の葉は陽光を反射して眩しく輝き、吹き抜ける風には草木が放つ生命の香りが凝縮ぎょうしゅくされている。


 ――今日はカエラムとコルネリアが春から大切に育ててきた、ファノーネのための牧草がついに収穫の時期を迎える特別な日だった。


 二人は朝から診療所の裏庭にある広大な牧草地へと向かった。

 ふかふかの黒土から驚くべき速度で成長を遂げた三種類の草は、今や膝の高さまで青々と茂り、風が吹くたびに美しい緑の波紋はもんを描いている。


 カエラムは白衣を脱ぎ、厚手のシャツの袖を捲り上げて、鋭く研ぎ澄まされたかまを手に取った。

 彼が腰を低く落とし、迷いのない動作で鎌を振るうたびに、大地の栄養を限界まで蓄えた茎が切り離され、むせ返るほどに爽やかで野性味あふれる芳香ほうこうが周囲に爆発的に広がっていく。


 コルネリアもまた、手際よくカエラムが刈り取った草をまとめ、束ねていく。

 太陽の熱をたっぷりと吸い込んだ刈りたての草は、手に触れるだけでその旺盛おうせいな生命力が伝わってくるようだった。


 一通りの収穫を終えた二人は、まずは一掴みの瑞々(みずみず)しい草を、期待に瞳を輝かせて待っている相棒のもとへと運んだ。

 馬小屋の前で手綱たづなを解かれたファノーネは、自身の鼻先をくすぐる極上の香りに、我慢できないといった様子で足踏みを繰り返している。


 コルネリアが自身の掌に草を乗せて差し出すと、ファノーネは喜びを全身で表現するように鼻を鳴らした。

 彼は栗毛の馬体を揺らしながら、大地の恵みを一心不乱いっしんふらん咀嚼そしゃくする。

 彼は満足げに首を振り、自身の主であるカエラムの肩に大きな頭を預け、さらにはコルネリアの指先を甘えるように鼻先で撫で回した。


「本当に、嬉しそうですわね。あなたがこれほど喜んでくれるなら、慣れない鎌仕事も頑張った甲斐かいがありましたわ」


 コルネリアが愛おしそうに彼の額を撫でると、隣でその様子を見守っていたカエラムも、穏やかに瞳を細めた。


「ええ。これだけの栄養があれば、これからの夏も彼は健やかに過ごせるでしょう。さて、ネリー。あちらもいよいよ、旅立ちの時が来たようですよ」


 カエラムが視線を向けたのは、馬小屋の屋根裏を支える高いはりの上だった。

 そこには、かつて不運の連鎖によって守られたセレフィルの巣がある。

 親鳥が周囲を旋回せんかいしながら鋭い声で呼びかける中、巣のふちには三羽のひなたちが並び、鮮やかな青い羽根を力強く羽ばたかせていた。


 一羽の雛が、意を決したように小さな身体を宙へと投げ出す。

 最初は危なっかしく高度を下げたが、すぐに初夏の風をその翼で捉え、力強く上昇していった。

 それに続くように、残りの雛たちも次々と巣から離れ、青空の中へと溶け込んでいく。


 かつての事故で危機に瀕した小さな命が、今や立派に自立し、自分たちの世界へと帰っていく――。

 その光景を、二人と一頭は言葉を失ったまま、いつまでも空を見上げて見守っていた。


「……本当に行ってしまいましたわ。少し寂しいけれど、あの子たちが空を舞う姿は、何よりも美しい贈り物でした」


「ええ。あなたの不運が招いた奇跡が、今、確かな自由となって羽ばたいていきましたね」


 カエラムは彼女の肩にそっと手を置き、空いた午後の時間をどう過ごすべきか、静かに提案した。

 幸いなことに、午後の往診おうしん予定はすべて順調に消化されており、診療所には久しぶりに追われるもののない平穏な時間が訪れていた。


 キッチンへと戻ったコルネリアは、読書に没頭しようとしているカエラムのために、特別なおやつを作ることにした。

 カエラムは甘いものを好んで自ら口にすることは少ないが、適度な酸味と塩気が加わったものであれば、喜んで食べてくれることを彼女は知っていた。


 コルネリアが用意したのは、先日二人で力を合わせて仕込んだ梅ジャムだった。

 彼女は蕎麦粉を混ぜた香ばしい生地を薄く焼き上げ、その中央に濃厚なクリームチーズを広げた。


 そこへ、たっぷりの梅ジャムを乗せ、縁を折り畳んでガレットの形に整えていく。

 仕上げに砕いた木の実を散らし、軽く熱を通せば、梅の爽やかな酸味とチーズのコクが混ざり合った芳醇ほうじゅんな香りが診療所を満たした。


 庭の木陰にある円卓へ、出来立てのガレットと温かいお茶を運ぶ。

 カエラムは本を閉じ、差し出された一皿に視線を落とした。


「梅ジャムを使ったガレットですか。素晴らしい香ばしさですね」


「先生の好みに合わせて、お砂糖は極力控えめにしてみましたの。召し上がってみてくださいな」


 カエラムが一口食べると、その端正たんせいな顔立ちに驚きと満足の笑みが浮かんだ。

 梅の尖った酸味がチーズによってまろやかに包まれ、生地の素朴そぼくな味わいと見事に調和している。


 二人は初夏の風が吹き抜ける木陰こかげで、穏やかな会話を楽しみながら、贅沢な昼下がりの時間を共有した。

 食後の心地よい沈黙が流れる中、コルネリアの胸の内に、言葉にできないほどの愛おしさが込み上げてきた。


 かつて孤独だった自分が、今こうして最愛の人の隣で、大地の恵みを分かち合い新しい命の門出かどでを祝っている。

 その幸福感に背中を押されるように、彼女はふらりと椅子から立ち上がりカエラムのすぐかたわらへと歩み寄った。


 彼女は自身の腕を彼の腕に絡ませ、吸い寄せられるようにしてその広い肩に頭を預けた。

 カエラムは一瞬だけ驚いたように身体を強張こわばらせたが、すぐに丸メガネの奥の瞳を和ませ、自身の肩に触れる彼女の体温を受け入れた。


「……ネリー。お酒も入っていないのに、あなたがこうして自ら甘えてくるのは、ひどく珍しいことですね」


「……私だって、たまには……我慢できなくなることもあるのですわ。お酒の力を借りなくても、先生の隣にいるだけで、胸が熱くなってしまいますもの」


 コルネリアは彼の胸元に顔を埋めるようにして、自身の素直な気持ちを吐露とろした。


 彼女は顔を上げ、至近距離で彼を真っ直ぐに見つめた。

 潤みを帯びたペリドットの瞳に自身の隠しきれない欲望を宿して、彼女は静かに唇を戦慄わななかせる。


「……先生。口づけを、してくださらない?」


 普段の彼女からは考えられないような、大胆なおねだり。

 カエラムの理性を繋ぎ止めていた最後の一線が――その無垢むくな誘惑によって容易たやすく崩れ去った。


 彼は大きな掌で彼女の白い頬を優しく包み込み、引き寄せられるようにして顔を近づけた。


「……困った人ですね」


 カエラムは低い声で囁き、迷うことなく彼女の柔らかな唇を自身のそれで塞いだ。


 初夏の強い陽光を木陰が優しく遮り、周囲には今を盛りと咲き誇るクチナシの白い花が、甘く濃厚のうこうな香りをただよわせている。

 その白い花弁は、二人の静かな誓いを祝福するように、微風そよかぜに揺れてその香りを一段と強めていた。


 唇から伝わってくる、互いの情愛の熱。

 巣立っていった小鳥たちの鳴き声が遠くで小さく響き、初夏の陽だまりに溶け合うような甘いひとときは、二人だけの永遠にも似た穏やかな安らぎの中に優しく溶け込んでいくのだった。

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