111 まあ……これはすべて、梅の実ですわね
空を覆う雲の層が薄くなり、初夏特有の力強い陽光が森の木々を真っ直ぐに突き抜けて大地を照らし出している。
風はかすかな湿気を帯び、周囲の豊かな緑の香りをたっぷりと含んで診療所の窓を揺らしていた。
患者の訪れがない穏やかな時間。
診療所の裏手に広がる菜園では、春の収穫を終えた区画に、これから迎える過酷な夏に向けて瑞々しい果実野菜を育てるための新しい土作りの作業が始まっていた。
カエラムは白衣を脱ぎ捨て、通気性の良い麻のシャツの袖を肘の上まで大胆に捲り上げている。
彼が重い鉄の鍬を高く振り上げ、迷いのない動作で大地に振り下ろすたびに、鈍い音と共に固く締まっていた黒土が深く掘り起こされていく。
コルネリアはその傍らにしゃがみ込み、彼が掘り起こした土の塊を小さな熊手で丁寧に砕き、新鮮な空気をたっぷりと混ぜ込みながら、真っ直ぐで美しい畝へと形を整えていく。
「ネリー。日差しが強くなってきました。あまり無理をしてはいけませんよ」
鍬を止めたカエラムが、額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら優しく声をかけると、コルネリアは顔を上げて微笑みを返した。
「大丈夫ですわ、先生。こうして土に触れ、これから育つ新しい命のための寝床を整える作業は、心がとても落ち着きますの」
彼女が懐から手拭いを取り出し、立ち上がって彼の額の汗をそっと押さえる。
カエラムはその心地よい世話を受け入れ、彼女の頬にわずかに土の汚れがついているのを見つけると、自身の指先で優しく拭い去った。
互いの労をねぎらい合う、夫婦のように穏やかで満ち足りた労働の時間。
数本の立派な畝を完成させ、たっぷりと水を撒き終えた後――。
二人は手についた土を水で洗い流し、それぞれ背負い籠を手にして診療所の裏手から続く深い森へと足を踏み入れた。
――本日のもう一つの目的は、初夏の時期にしか芽吹かない特殊な効能を持つ薬草の採取である。
気温が上がるこれからの季節、虫除けや暑気払いに効果を発揮する香りの強い薬草は、診療所にとって欠かせない備えとなる。
森の中は、外の強い日差しが木々の天蓋によって遮られ、ひんやりとした涼やかな空気が満ちていた。
足元には厚く積もった腐葉土が広がり、踏みしめるたびに柔らかく沈み込む。
二人は並んで歩きながら、目当ての薬草の群生地を探して森の奥へと進んでいった。
「ありました。あの斜面の陰に群生している、先の尖った葉を持つ植物です」
カエラムの指差す先には、深い緑色をした独特の形状の葉が密集して生えていた。
近づくと、鼻腔を通り抜けるような鋭く清涼な香りが漂ってくる。
二人は籠を下ろし、根を傷つけないように注意深く刃物を入れ、新鮮な葉を次々と刈り取っていった。
静かな森の中に、刃物が茎を断ち切る微かな音と、葉が擦れ合う音だけが響く。
やがて、目的としていた十分な量の薬草が籠を満たした頃――。
カエラムがふと作業の手を止め、コルネリアの頭の高さへと視線を向けた。
「ネリー、少しそのまま動かないでください」
彼が静かに手を伸ばし、彼女の美しいホワイトブロンドの髪に指先を滑り込ませた。
風に飛ばされてきたのか、彼女の髪の間に小さな枯れ葉が一つ、入り込んでいたのである。
カエラムはそれを慎重に取り除き、そのまま名残惜しそうに彼女の滑らかな髪の束を優しく梳いた。
「ありがとうございます、先生。作業に夢中で、全く気が付きませんでしたわ」
「ええ。森の植物たちも、あなたの美しい髪に惹きつけられてしまったのかもしれませんね」
真顔で紡がれる甘い言葉に、コルネリアは頬を微かな朱色に染めた。
誰もいない静寂の森。
木漏れ日の中で見つめ合う二人の間には、甘やかな時間が流れていた。
目的の薬草を無事に採取し終え、二人は充実感を胸に抱きながら、診療所への帰路についた。
先を歩くカエラムの背中を見つめながら、コルネリアは彼と共に過ごす日々の幸福を噛み締めていた。
――しかし、この森の自然は、彼女に平穏な散歩道だけを約束してはくれなかったのである。
鬱蒼と茂る草陰に、長い年月を経て土から大きく隆起した、太く滑りやすい木の根が隠れていた。
コルネリアの靴の先端がその硬い根に正確に引っかかり、彼女の身体は制御を失って前のめりへと大きく傾いた。
「あ……っ!」
短く声を上げた彼女の身体が地面に叩きつけられるよりも早く、前を歩いていたカエラムが素早く振り返り、腕を伸ばして彼女の腰を抱きとめた。
彼の広い胸に顔を埋める形で、コルネリアは間一髪で転倒を免れる。
――だが、事態はこれで終わりではなかった。
彼女が体勢を崩した反動で、背負っていた籠の端が傍らの小さな斜面から垂れ下がっていた太く乾燥した蔦へと深く引っかかっていたのである。
カエラムが彼女を抱きとめて動きを止めた瞬間、引っ張られた蔦は限界まで張り詰め、耐えきれずに弾け飛んだ。
その強烈な反発力は、斜面の中腹に危うい均衡で乗っていた、手頃な大きさの丸い石を激しく弾き飛ばした。
空中に打ち出された石は、斜面を跳ねるようにして猛烈な速度で転がり落ち、さらにその奥にある、周囲を高い草に覆われた大きな茂みの中へと突入していった。
直後――茂みの奥深くから、重い物体が硬い樹皮に激突する鈍い音が響き渡った。
その衝撃は尋常なものではなく、茂みに隠れていた太い幹を持つ果樹全体を激しく揺るがした。
「……先生、今の音は?」
コルネリアがカエラムの腕の中で身をすくませた直後――。
激しく揺れた木々の枝から、何か丸みを帯びた無数の塊が、まるで初夏の土砂降りのように二人の頭上へと降り注いできたのである。
「危ない、顔を伏せて!」
カエラムは瞬時に彼女の頭を抱え込み、自身の広い背中と両腕で彼女の身体を完全に覆い隠すようにして庇った。
二人の周囲の地面に、幾つもの果実が落ちて転がる音が連続して響く。
直接的な痛みはないが、周囲の空気が一瞬にして果実特有の強烈に甘酸っぱく、どこか芳醇な香りによって完全に塗り替えられていった。
――やがて、落下の音が完全に止み、森に再び静寂が戻った。
カエラムが慎重に腕の力を緩め、二人は周囲の様子を見渡した。
彼らの足元の腐葉土の上には、目にも鮮やかな緑色をした丸い果実と、黄色く色づき始めて甘い香りを放つ果実が、辺り一面に転がっていた。
その数、籠を二つほど満たすには十分すぎる量である。
石が激突した茂みの奥に隠れていたのは、初夏の実りを限界まで蓄え、収穫の時を今か今かと待ちわびていた立派な野生の梅の木だったのである。
「まあ……これはすべて、梅の実ですわね。こんな場所に、これほど立派な果樹が隠れていたなんて」
コルネリアは驚きに目を丸くし、足元に転がっている傷のない美しい青梅を一つ、そっと拾い上げた。
果実の表面には微かな産毛があり、鼻を近づけると爽やかな酸味を感じる香りがした。
カエラムもまた、地面に散らばった大量の梅と、先ほど石が転がっていった斜面を交互に見比べ、やがて堪えきれないように笑い声を漏らした。
「やはり、あなたの不運なつまずきは……結果として、いつも我々に極上の恵みをもたらす特別な鍵のようですね。もしあなたがここで転ばなければ、この素晴らしい果実たちは、誰にも気づかれることなく土に還っていたことでしょう」
彼の言葉に、コルネリアは自身の失敗がまたしても奇妙な幸運へと繋がったことを理解し、ペリドットの瞳をきらきらと輝かせた。
「先生。これほどの量があれば、保存食を作るのに十分ですわ。青く硬いものは砂糖とともに漬け込んで、夏の暑さを乗り切るための甘酸っぱいシロップに。そして黄色く熟したものは、塩で漬け込んでから太陽の光を浴びせ、疲労を回復させる立派な梅干しにいたしましょう」
明日の労働を思い描き、弾むような声で提案するコルネリア。
その豊かな知識と、恵みを一切無駄にしない姿勢に、カエラムは深く頷いた。
「素晴らしい提案です。明日は二人でじっくりと梅仕事に取り掛かることにいたしましょう。この香りだけで、すでに夏の暑さを忘れさせてくれそうです」
二人は採取した薬草が潰れないよう注意しながら、背負い籠の空いた空間に、傷のない綺麗な梅の実を次々と拾い集めていった。
籠がずっしりとした重みを持つ頃には、二人の手は梅の芳醇な香りで包まれていた。
夏の到来を告げる甘酸っぱい収穫の喜びと、明日二人で共に作業を行うという新しい約束――。
予期せぬ大地の恵みを背負い、二人は満ち足りた足取りで、初夏の陽光が差し込む森の小道を診療所へと向かって歩みを進めていくのだった。




