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冤罪で追放された伯爵令嬢は、森の奥の診療所で天才医師の胃袋を掴み、愛されながら幸せなスローライフを満喫します  作者: 白月つむぎ


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110 もうすぐ、大空へ羽ばたいていくのですね

 雲一つない高く澄み切った空から、初夏の眩しい陽光ようこうが森の木々へと降り注いでいる。

 青葉あおばの隙間をって落ちる光の粒は、地面に美しい模様もようえがき出し、風が通り抜けるたびにそれが万華鏡まんげきょうのように形を変えていく。

 空気にはかすかな湿り気と、生命の息吹いぶきを感じさせる濃密のうみつな緑の香りが混ざり合っていた。


 午前中の穏やかな時間。

 診療所の庭先にある巨大な古木こぼく木陰こかげに簡素な机を出し、カエラムは朝早くに森で採取さいしゅしてきたばかりの薬草の仕分け作業を行っていた。


 しかし、室内での家事を終えたコルネリアが温かいお茶をれて彼のもとへ向かうと、そこには少しばかり意外な光景が広がっていた。

 カエラムは作業の途中で手を止めたまま、木製の椅子の背もたれに深く身体を預け、静かな寝息を立てていたのである。

 彼は頭をわずかに横へ傾け、完全に無防備な状態で微睡まどろんでいる。

 丸メガネの奥のアンバーの瞳は閉じられ、長い睫毛まつげが目元に柔らかな影を落としていた。


 数日間にわたる遠方の村への往診おうしんや、夜遅くまでの医学書の解読かいどくなど、疲労が蓄積ちくせきしていたことは間違いない。

 それに加え、この初夏特有の心地よい風と、木陰の絶妙な涼しさが、彼の理性を一時的に溶かしてしまったのだろう。


「……本当にお疲れなのですね、先生」


 コルネリアは足音を忍ばせて歩み寄り、机の上にお茶の入った湯呑みを音を立てずに置いた。

 そして自身が肩に羽織はおっていた薄手の上着をふわりと外し、カエラムの広い肩から胸元をおおううようにして掛けてあげた。

 彼が風邪を引かないようにという思いと、もう少しだけこの平和な夢の中にいさせてあげたいという愛情から出た行動だった。


 カエラムの穏やかな寝顔をしばらく愛おしそうに見つめた後、コルネリアは彼を起こさないように細心の注意を払いながら、裏庭の菜園へと足を向けた。

 春の初めに種をいた菜園は、今や驚くべき豊かな実りの時を迎えていた。


 一番奥のうねでは、ファノーネのために育てている牧草が、大地の栄養を限界まで吸い上げて青々と茂っている。

 風に揺れるその姿は小さな波のようで、間もなく本格的な刈り入れができる背丈にまで成長していた。


 その隣の畝には、コルネリアが毎日水やりと虫除けの世話を欠かさなかった春の野菜たちが、誇らしげに顔を並べている。

 柔らかな葉を幾重いくえにも巻き込み、ふっくらとした美しい球状きゅうじょうに育った春キャベツ。

 そして、土の中から少しだけ顔を覗かせ、水分をたっぷりと含んであでやかな薄皮うすかわまとった新玉ねぎである。


「素晴らしい育ち具合ですわ。これなら、とびきり美味しいお料理になりそうです」


 コルネリアは土の上にしゃがみ込み、最も大きく重みのある春キャベツの根元に小刀を入れ、丁寧ていねいに切り離した。

 さらに、葉の根本をしっかりと掴んで新玉ねぎを引き抜くと、湿った黒土の香りとともに、眩しいほどに瑞々しい野菜が姿を現した。


 初収穫の恵みをかごに収め、彼女はそのままの足で馬小屋へと向かった。

 扉を開けると、自身の専用の牧草が育っていることを匂いで察知さっちしているのか、ファノーネが待ちきれない様子で足踏みをして出迎えてくれた。


「もう少しの辛抱よ、ファノーネ。今日はあなたの大好きな、一番甘い乾草かんそうを持ってきたわ」


 コルネリアが飼い葉桶にたっぷりの乾草を補充すると、ファノーネは嬉しそうに鼻を鳴らし、力強いあご咀嚼そしゃくを始めた。

 彼の食事の様子を優しく見守っていたコルネリアは、ふと、馬小屋の屋根裏を支える高いはりへと視線を向けた。


 冬の終わりに、コルネリアの不運な事故によって崩れ落ちた木材の下から間一髪で守られた、幸運と繁栄はんえい象徴しょうちょうする鳥――セレフィルの巣。

 そこでは今、親鳥の献身的けんしんてきな愛情を受けて育った数羽のひなたちが驚くべき成長をげていた。


 かつては灰色の産毛に包まれていた小さな身体には、今や親鳥と同じ、ラピスラズリを思わせる鮮やかな青い羽根が立派に生え揃っている。

 雛たちは巣のふちに危なっかしい足取りで立ち、自身の小さな翼を広げては、懸命けんめいに羽ばたかせる練習を繰り返していた。

 まだ空へと飛び立つほどの力はないが、外の世界への強い憧れと、生命の躍動感やくどうかんがその小さな身体からひしひしと伝わってくる。


「……もうすぐ、大空へ羽ばたいていくのですね」


 コルネリアが静かに呟くと、食事の手を止めたファノーネもまた、頭上の雛たちを見上げるようにして短い呼気こきを漏らした。

 自身が間接的に守り抜いた命が、こうして成長し、巣立ちの時を迎えようとしている。

 一人と一頭は、その健気けなげで力強い飛翔ひしょうの練習を、微笑ましく――そして、少しの寂しさを交えながらいつまでも見守っていた。


 馬小屋を後にし、野菜の入った籠を抱えて庭先へと戻ると、木陰こかげの椅子で眠っていたカエラムが目を覚ましていた。

 彼は立ち上がり、自身の肩に掛けられていたコルネリアの上着を両手で大切に持ち、その布地ぬのじの感触を愛おしそうに親指で撫でているところだった。


 コルネリアの足音に気づくと、彼は少しだけバツが悪そうに丸メガネの位置を直し、柔らかく微笑んだ。


「……心地よい風に、つい油断してしまいました。わざわざ上着を掛けてくれて、ありがとう、ネリー」


 二人きりの空間に響く、甘い愛称。

 その声の響きにコルネリアは胸の奥を温かくし、優しく首を横に振った。


「お疲れのようですから、もう少し眠っていてもよろしかったのですよ。さあ、先生が休まれている間に、菜園で立派なお野菜を収穫してまいりました。すぐにお昼ご飯にいたしましょう」


 台所へ戻った二人は、並んで昼食の準備に取り掛かった。

 本日の主役は、初収穫の春キャベツと新玉ねぎ、そして保存食として備蓄していた厚切りのベーコンを使った特製のパスタである。


 まずは良質なベーコンを、食べやすい細切りにしていく。

 熱した平鍋に油を敷き、ベーコンを弱火でじっくりと炒める。

 ベーコンの縁がカリカリに色づくにつれ芳醇ほうじゅんあぶらが溶け出し、燻製くんせいの香ばしい匂いが診療所の空気を一気に満たしていった。


 そこへ、薄く切り分けた新玉ねぎを投入する。

 春の水分をたっぷりと含んだ玉ねぎは、熱したベーコンの脂と絡み合うことで驚くほどの速さで透き通り、強烈な甘い香りを放ち始めた。


 さらに、手で大きめにちぎった春キャベツを山のように加える。

 キャベツの柔らかな葉は火を通しすぎないことが肝要かんようであり、鮮やかな緑色がさらに濃く変化した絶妙な瞬間を見極め、隣の鍋で茹で上がったばかりのパスタを少量の茹で汁と共に一気に加えた。


 鍋肌から少量の塩と、香りを引き締めるための砕いた胡椒こしょうを振りかけ、全体を素早くあおって乳化にゅうかさせる。

 ベーコンの塩気、新玉ねぎの溶け出すような旨味、そして春キャベツの芯まで詰まった自然な甘みが、パスタの一本一本に完璧に絡みついた極上の一皿が完成した。


 円卓に向かい合って座り、手を合わせてから二人は熱々のパスタを口へと運んだ。

 カエラムが一口咀嚼(そしゃく)した瞬間――彼のアンバーの瞳が驚きと喜びに丸く見開かれた。


「これは……見事な調和ちょうわですね。春キャベツの葉が驚くほど柔らかく、噛むたびに上品な甘みが溢れ出してきます。そこに新玉ねぎの風味とベーコンの力強い塩気が合わさり、身体が芯から歓喜かんきするような味わいを生み出している」


 心からの賛辞を口にするカエラムに、コルネリアも嬉しそうに頷き、自身の皿のパスタを味わった。

 自身の手で土から育て上げた野菜が、最愛の人の活力を養うかてとなる。

 これ以上の喜びは、彼女の人生において存在しなかった。


「お気に召して良かったですわ。そういえば先生、先ほど馬小屋へ行った際、屋根裏のセレフィルの雛たちが、巣の縁で飛ぶ練習をしておりましたの」


 食事を進めながら、コルネリアが馬小屋での光景を報告すると、カエラムは少しだけ目を細め、感慨かんがい深げな表情を浮かべた。


「そうですか。あれほど小さかった命が、もう自らの翼で風を掴もうとしているのですね。季節の移り変わりと生命の成長の速さには、いつも驚かされます」


「ええ。ファノーネも、とても愛おしそうに頭上を見上げておりましたわ。あの子たちが大空へ飛び立っていく日は、もうすぐそこまで来ているのですね」


 巣立っていく小さな命への祝福と、少しの寂しさを交えたコルネリアの言葉に、カエラムは彼女の手を優しく自身の掌で包み込んだ。


「あの子たちが無事にこの森の空へ羽ばたけるよう、私たちは最後まで静かに見守りましょう。そして……彼らが去った後も、私たちのこの場所は、何も変わることなく穏やかな時間を刻み続けていくのです」


 彼の言葉の奥にある、永遠にも似た絶対的な安心感と愛情の誓い。

 コルネリアは彼の温かいてのひらに自身の体温を預け、心から満ち足りた微笑みを返した。


 窓の外では初夏の風が森の木々を優しく揺らし、心地よい葉擦はずれの音を響かせている。

 木陰の微睡まどろみから始まった穏やかな一日は、初収穫の大地の恵みと、巣立ちを控えた小さな命への祈りとともに、二人の確かなきずなをより一層深く、色鮮やかに染め上げながら過ぎていくのだった。

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