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冤罪で追放された伯爵令嬢は、森の奥の診療所で天才医師の胃袋を掴み、愛されながら幸せなスローライフを満喫します  作者: 白月つむぎ


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109 たくさん召し上がれ

 木々の隙間から降り注ぐ陽光ようこうが、湿り気を帯びた深い緑の奥底まで真っ直ぐに差し込み、宝石のような輝きを地面に散りばめている。

 初夏の森は春の瑞々しさとは異なる、どこか濃密のうみつで力強い生命の気配に満ちあふれていた。

 窓を開け放てばれたこけや若葉が放つ特有の清涼せいりょうな香りが、柔らかな熱を帯びた風と共に室内へと流れ込み、診療所の隅々(すみずみ)にまで季節の移ろいを告げている。


 ――午前中の慌ただしい診療を終え、カエラムとコルネリアは午後の往診おうしんに備えた準備を進めていた。


 コルネリアは、重い腰痛ようつうを抱えながらも無事に完治し、先ほど笑顔で去っていった老農夫からゆずり受けたばかりの、大きなかごを見つめて目を細めた。

 その中には、農夫が感謝の印として焼いてきてくれた、雲のように柔らかな白パンが大切に収められている。


「コルネリアさん、薬箱の補充ほじゅうは整いましたか? 川下の村まで歩くことになりますから、日差しへの対策も忘れないようにしましょう」


 診察室の机に向かいカルテに筆を走らせていたカエラムが、丸メガネの奥の瞳を上げて声をかける。

 周囲に患者の気配がないことを確認した彼は、椅子のきしむ音と共に立ち上がると、コルネリアの傍へと歩み寄った。

 そして、彼女の美しいホワイトブロンドの髪を一房ひとふさ、愛おしむように長い指先でいた。


「……無理は禁物ですよ、ネリー。昨夜はあまり、身体を休めることができなかったのでしょう?」


 二人きりの瞬間にだけ許された、秘めやかな愛称。

 その甘美な響きと髪に触れる彼のてのひらの熱に、コルネリアは頬を淡い薄紅色うすべにいろに染め、彼の手の上に自身の細い指をそっと重ねた。


「先生の腕の中があまりにも心地よくて、幸せすぎて……少しだけ、夜が明けるのが惜しくなってしまったのかもしれませんわ」


 昨夜の記憶を共有し、二人が穏やかな微笑みを交わしていた――その時。

 森の小道から複数の足音と、幼い子供の舌足したたらずな笑い声が診療所へと近づいてくるのが聞こえた。


 カエラムは瞬時に指を離し、表情を医師のものへと戻す。

 コルネリアもまたエプロンのすそを整えて背筋を伸ばし、雇い主と助手という適切な距離を保った。


 やがて、診療所の分厚い木の扉が、控えめながらも確かな期待を込めて叩かれた。


「カエラム先生、コルネリアさん。いらっしゃいますか?」


 懐かしい声に応えて扉を開けると、そこには初夏の光を背に受けた、二人の小柄こがらなラットマンの姿があった。

 以前、この場所で劇的げきてきな出産の夜を共に乗り越えたトロンとキャロラインである。


 カエラムは彼らの健やかな姿を認め、アンバーの瞳に深い安堵の色を浮かべた。


「トロンさん、キャロラインさん! よくいらっしゃいました。お二人とも、お変わりないようですね」


「ええ、おかげさまで。今日は、先生たちにどうしても会わせたい者がいて、ここまでやってきたんです」


 トロンが誇らしげに胸を張り、傍らに立つキャロラインの手を引いた。

 彼女の足元には、一人の小さな、ひどく愛らしい存在がいた。


 月の光を思わせる柔らかな灰色の毛並みを持ち、コルネリアがかつて贈った産着うぶぎ刺繍ししゅうと同じ意匠いしょうらした服に身を包んだ――幼い少女。

 彼女は自身の足でしっかりと大地を踏みしめ、不思議そうにカエラムとコルネリアを見上げている。


「まあ……この子は、あの時の……?」


 コルネリアが驚きと共に膝をつき、少女と同じ目線にまで身を低くした。

 キャロラインが優しく少女の背中を押し、深い愛情を込めて口を開いた。


「はい。あの日、先生たちの手によってこの世界に迎えていただいた、私たちの娘……リリアーナです。ようやく自分の足でしっかりと歩けるようになりましたので、先生たちに一番に見せに来ましたの」


 リリアーナという、鈴の音のように清らかな響き。

 少女は自身の名前を呼ばれたことに気づいたのか、少しだけ首をかしげた後、よちよちとした危なっかしくも力強い足取りでカエラムの元へと歩み寄った。

 そして、彼のズボンのすそを、驚くほど小さな指先でぎゅっと掴んだのである。


「リリアーナちゃん。そうですか、君がリリアーナちゃんというのですね」


 カエラムは医療器具いりょうきぐを扱う時よりもはるかに慎重しんちょうな手つきで、彼女の小さな頭を撫でた。


 一年前の真夜中、自分の腕の中で産声を上げたあの小さな命が、今やこうして自らの意志で歩き、力強く他者の服をつかんでいる。

 その生命の逞しさに、彼の胸は熱く震えていた。


「本当に、立派な成長ぶりですわ。キャロラインさん、トロンさん、大切に育てられたのですね。彼女の瞳の中に、この森の光が宿っているようです」


 コルネリアが感極かんきわまったように微笑むと、トロンは照れくさそうに鼻の頭をかいた。


「さあ、せっかくここまで来てくださったのです。お昼ご飯を一緒に食べながら、これまでの積もるお話を伺いましょう」


 カエラムの提案により、五人は診療所の中へと移動した。

 コルネリアはすぐさまキッチンに立ち、まだ歯が生えそろいきっていないリリアーナでも食べやすく、大人も十分に満足できる献立を考案こうあんし始めた。


 今日、彼女が主役に選んだのは、先ほどの老農夫から譲り受けたばかりの驚くほど柔らかく、そして雪のように真っ白なパンである。

 それと、泥の匂いをかすかに残す新じゃがを用意した。


 蒸し器に入れ、ゆっくりと熱を通していく。

 じゃがいもの中心部まで十分に熱が通り、竹串が抵抗なく通り抜けるようになったところで、手早く皮を剥いてボウルへと移した。

 木製のへらで一切のかたまりが残らないほどなめらかにすりつぶしていく。


 そこへ、街の商人から以前手に入れていた、缶詰に入った上質な油に漬け込まれたマグロの身――ツナをたっぷりと加えた。

 さらに卵を使い、酸味を抑えた自家製のまろやかなマヨネーズを作り上げる。

 新じゃがの甘みとツナの塩気、そしてマヨネーズの濃厚なコクが混ざり合い、リリアーナでも安心して口にできる優しい味わいのペーストが完成した。


 コルネリアは、農夫からいただいた大切なパンを薄く切り分けた。

 その断面だんめんに、先ほど完成したばかりのペーストをたっぷりと塗り広げていく。

 パンの柔らかな質感とペーストの滑らかさが一体となった、特製のサンドイッチである。


 円卓を囲み、カエラムとコルネリア、そしてラットマンの家族が向かい合って席に着いた。

 コルネリアはリリアーナの前に、小さく一口大に切り分けたサンドイッチを並べる。


「さあ、リリアーナちゃん。お腹が空きましたでしょう? たくさん召し上がれ」


 リリアーナは目の前に並んだ美味しそうな食べ物に、瞳をきらきらと輝かせた。

 彼女はまだ不器用な両手でサンドイッチを一つ掴むと、大きく口を開けて一生懸命いっしょうけんめい頬張ほおばった。

 新じゃがの甘みが口の中に広がった瞬間、彼女の顔には太陽のような眩しい笑顔が咲き乱れた。


「……美味しい! リリアーナちゃん、美味しいね!」


 トロンが涙ぐみながら自身のサンドイッチを口に運んだ。

 カエラムもまた、素材の味がきたその一皿に、静かな満足感を覚えていた。


「これほどまでに喜んで食べていただけると、料理を作った甲斐かいがありますね。コルネリアさん、素晴らしい献立です」


「ええ。リリアーナちゃんの食べっぷりを見ているだけで、こちらまで元気が出てきますわ」


 賑やかな食卓の上で、トロンたちが暮らしている街の様子や、獣人として生きる中での新しい苦労と――それ以上に大きな喜びについて語り合う。

 リリアーナは時折口の周りに白いマヨネーズをつけながら、カエラムの顔をじっと見つめては、愛らしく鼻を鳴らした。


 かつて深い闇の中にいた家族が、今やこうして一つの卓を囲み、平和な食事を楽しんでいる。

 その光景は、カエラムにとっても、コルネリアにとっても、自分たちがこの場所で命を守り続ける意義いぎ再確認さいかくにんさせてくれるものであった。


「リリアーナちゃん、もうお腹はいっぱいかな?」


 カエラムが優しく問いかけると、リリアーナは満足そうに小さなお腹を撫でて、可愛らしく頷いた。


 ――食後の穏やかなお茶の時間。


 リリアーナはコルネリアの膝の上で、心地よい満腹感まんぷくかんあらがえず、ゆっくりと大きなまぶたを閉じ始めた。

 彼女の規則正しい寝息が診療所に響く中、カエラムはトロンの手を取り、その掌の厚みを確かめるようにして頷いた。


「トロンさん。この子が健やかに歩める世界を、私たちはここで守り続けます。またいつでも、この場所を思い出して帰ってきてください」


「はい。先生とコルネリアさんのことは、この子が大きくなっても、俺たちの命の恩人として語り継いでいきます。本当に、ありがとうございました」


 夕暮れが近づき、森の空が柔らかな薄紫色うすむらさきいろに染まり始める頃――。

 トロンは眠っているリリアーナを、自身のたくましい背中で大切に抱き上げた。

 キャロラインもまた、コルネリアの手を一度強く握りしめ、感謝の意を伝えて扉へと向かった。


 カエラムとコルネリアは、診療所の扉の前に立ち、ゆっくりと森の奥へと消えていく三人の影をいつまでも見守り続けた。

 リリアーナが時折、夢の中で笑うように足を動かすのが見え、二人は同時に穏やかな安堵あんど吐息といきを漏らした。


「……行ってしまいましたね、コルネリアさん。少しだけ、家の中が広くなってしまったように感じます」


「ええ、カエラム先生。ですが、リリアーナちゃんが残してくれたあの小さな足音の余韻よいんが、私の胸を温かく満たしてくれていますわ」


 周囲に誰もいなくなったことを確認し、カエラムは静かにコルネリアの肩に手を回し、彼女を自身の胸の中へと引き寄せた。


「素晴らしい再会でしたね、ネリー。私たちのこの診療所は、本当に、温かな命の交差点こうさてんになりました」


「はい。これからも、二人でこの場所を守っていきましょうね」


 初夏の風が窓から入り込み、二人の髪を優しく揺らす。

 新しい命の成長を見届け、未来への希望を新たにした二人の間に流れる時間は――これまで以上に深く、確かなきずなに満たされて、どこまでも穏やかに続いていくのだった。

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