108 ネリーが寂しいと言っているのですから
数週間にわたり近隣の村々を暗い影で覆っていた、厄介な流行り風邪の猛威。
カエラムとコルネリアが不眠不休に近い状態で薬草を調合し、村へ赴いて適切な処置と指導を続けた結果、その感染の波はようやく完全な収束を迎えることとなった。
最後の患者が健康な血色を取り戻し、笑顔で去っていった日の夜――。
森の診療所には、張り詰めていた緊張の糸が解けたような、穏やかな安堵の空気が満ちていた。
翌日は久しぶりに設定された完全な休診日である。
二人は、この数週間の間に身体の芯まで蓄積された疲労を洗い流すため、診療所の裏手にある天然の湯浴み場へと交互に足を運んだ。
初夏の少し汗ばむような外気の中、大地から湧き出る温かなお湯に身を沈めると、筋肉の強張りがゆっくりと解け、魂の奥底まで浄化されていくような感覚に包まれる。
湯上がりには、森の木々を通り抜けてくる涼やかな夜風が火照った肌を優しく撫で、二人の心にかつてないほどの軽やかな自由と解放感をもたらしていた。
肌触りの良い衣服に着替えた二人は、円卓の横にあるキッチンスペースへと並んで立った。
――今夜は、互いの献身的な働きを労うための、ささやかながらも特別な晩餐である。
コルネリアが氷箱から取り出したのは、昨日、商人が診察のお礼にと置いていった、美しい白身を持つ旬の大型魚であった。
それと、色鮮やかな夏野菜の数々。
「これほど見事な食材が揃っているのです。今夜は、よく冷やした白ワインに合うお料理を並べて、心ゆくまで休息の時間を楽しみましょう」
カエラムが穏やかな声で提案し、手際よく白身魚の下処理を開始する。
彼は魚の身を分厚く切り分け、塩と香草を擦り込んでいく。
熱した平鍋に透き通るようなオリーブの油を敷き、魚の皮目を下にして静かに落とし入れると、油が弾ける軽快な音と共に食欲を刺激する香ばしい匂いがキッチンを満たし始めた。
その傍らで、コルネリアは色鮮やかな野菜たちを切り揃え、別の鍋で加熱していく。
瑞々しい緑色のアスパラガス、果肉に豊かな酸味を蓄えた真っ赤なトマト、そして大地の甘みを持つ黄色のパプリカを、少量の水と油で蒸し焼きにする。
さらに、グリンダから以前譲り受けていた硬質チーズを薄く削り出し、香ばしく焼いた丸パンの上に山のように乗せた、酒の肴にふさわしい一品も用意した。
皮目を鋭く焼き上げ、内側はふっくらと柔らかな白身魚に、熱を加えた色鮮やかな夏野菜のソースがかけられる。
すべての料理が円卓の中央に並べられ、ランプの灯りが料理の艶やかな表面を美しく照らし出した。
カエラムは棚の奥から、氷水を入れた木桶で極限まで冷やしておいた、細長い硝子の瓶を取り出した。
透明な琥珀色をした白ワインが、二つのグラスへと静かに注がれる。
果実の爽やかな酸味と、大地が育んだ芳醇な香りが、円卓の周囲の空気を甘やかに染め上げていく。
「コルネリアさん。この数週間、あなたが私の隣で常に完璧な助け舟を出してくれたからこそ、私は倒れることなく、すべての患者を救うことができました。あなたの強さと優しさに、心からの敬意と感謝を」
カエラムがグラスを掲げ、アンバーの瞳に深い情愛を宿して彼女を見つめる。
コルネリアもまた、ペリドットの瞳を潤ませてグラスを持ち上げた。
「私の方こそ、先生の諦めないお姿から、どれほどの勇気をいただいたか分かりません。私たちの無事と、これからの穏やかな日々に……乾杯」
二つのグラスが触れ合い、涼やかな高い音が夜の診療所に響いた。
冷えた白ワインを一口含むと、果実の鮮烈な酸味と奥深い甘みが喉を通り抜け、疲れ切っていた身体の細胞一つ一つに染み渡っていく。
続いて、白身魚と夏野菜のソースを口に運ぶ。
淡白でありながらも上質な脂を持つ魚の旨味を、野菜の酸味と香草の風味が完璧に引き立てており、ワインとの相性はまさに計算し尽くされたかのように見事であった。
美味しい料理と美酒を味わい、数週間ぶりの平和な会話を楽しむ中――カエラムがふと、手にしていたグラスを置き、どこか熱を帯びた眼差しでコルネリアへと向き直った。
「……あの、一つ、あなたにお聞きしたいことがあります。あなたが王都にいた頃、親しい方からは、何と呼ばれていたのでしょうか?」
唐突な問いかけに、コルネリアは少し驚いたように瞬きをした後――懐かしむように微笑んだ。
「心を許していた一部の侍女たちは、私のことを愛称でネリーと呼んでおりましたわ。王都を離れてからは、誰かにそう呼ばれる機会はなくなってしまいましたが」
その言葉を聞いたカエラムは、少しだけ自身の前髪をいじり、微かな躊躇いを見せた後――静かに言葉を紡いだ。
「ならば……これからは。こうして診療所で二人きりになった時だけ、私があなたのことをネリーと呼んでもよろしいでしょうか?」
普段は礼儀と節度を保つ彼からの、あまりにも不意打ちの提案。
それは、二人の間の見えない境界線をさらに一歩踏み越え、より親密で特別な関係性を構築したいという、彼なりの不器用で誠実な愛情表現だった。
コルネリアの心臓が、甘い熱を帯びて大きく跳ねる。
顔が一気に朱色に染まっていくのが、自分でもはっきりと分かった。
「……はい。とても、嬉しいですわ。先生がその名前で呼んでくださるなら、私にとって、世界で一番大好きな響きになります」
彼女の返答を受け、カエラムは安堵したように深く息を吐き出し、これまでに見たことがないほど柔らかく――そして、甘い微笑みを浮かべた。
「ありがとう、ネリー。私の大切な、かけがえのない人」
彼の低い声で紡がれる、自身の愛称。
その響きは、高級な白ワインよりも遥かに強烈に、彼女の理性を溶かしていく魔力を持っていた。
流行り風邪という大きな難局を乗り越えた安堵感、長期間の疲労の反動、そして何より、最愛の人から特別な名前で呼ばれたという圧倒的な歓喜。
それらの要素が重なり合い、コルネリアの酔いの回りは、普段からは想像もつかないほどに早まっていった。
彼女の白い頬はりんごのように愛らしく染まり、その瞳は水面のように揺らめいている。
食事の手を止めたコルネリアは、自身の席から立ち上がると、ふらつく足取りを隠すことなくカエラムの隣へと移動した。
そして、彼の広い肩へと自身の頭をこてりと預け、その衣服から漂う清潔な薬草の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「ネリー……とても甘美な響きですわ。先生、もっと私の名前を呼んでくださいな」
普段の彼女からは考えられないような、無防備で甘ったるい声。
彼女はカエラムの腕に自身の腕を絡ませ、すり寄るようにしてその体温を求めている。
カエラムは一瞬身体を強張らせたが、すぐに愛おしさに耐えきれないというように目を細め、彼女のホワイトブロンドの髪を自身の大きな手で幾度も撫でた。
「ネリー。少し、お酒の回りが早いようですね。これ以上飲むと、明日の朝に響きますよ」
優しく窘める彼の言葉。
彼女は肩から頭を離し、潤みを帯びたペリドットの瞳で、至近距離からカエラムの顔を見つめ上げた。
彼のアンバーの瞳の中に、自分への抗いがたい欲望と愛情が渦巻いているのがはっきりと見て取れる。
「私……先生に口づけしてほしくなってしまいましたわ」
それは、夜の静寂に落とされた、あまりにも甘く――あまりにも直接的な誘惑だった。
彼は彼女の顎に指を添え、逃げ道を塞ぐようにして、熱を帯びた唇を真っ直ぐに重ね合わせた。
触れ合うだけの口づけではない。
互いの存在を深く確かめ合うような、深く――そして、長い接触。
白ワインの芳醇な香りと、彼自身の持つ清潔な香りが混ざり合い、コルネリアの思考は完全に白く塗り潰されていく。
息が苦しくなるほどに熱を交換し合い、ようやく二人の唇が離れた時、コルネリアは自身の心臓が破裂してしまいそうなほどの高鳴りを感じていた。
――実は、この時のコルネリアの酔いは、そこまで深いものではなかった。
愛称で呼ばれた喜びによる気分の高揚こそあれど、周囲の状況が分からなくなるほどの酩酊状態ではない。
しかし、彼女は自身の内側で燃え上がる、彼にもっと甘えたい、彼を独占したいという切実な欲求に従い、酔ったふりを継続することを決意したのである。
「……ああ、なんだか急に、足に力が入らなくなってしまいましたわ。もう、一歩も立てませんの」
彼女は芝居がかった手つきで自身の額を押さえ、弱々しい声を出しながら立ち上がった。
そして、自身の寝台へ向かうと見せかけて、不自然なほど迷いのない足取りでカエラムが普段使用している簡素な寝台の方へと歩みを進めたのである。
そのまま彼女はカエラムの寝台の毛布の中へと滑り込み、彼の匂いが染み付いた枕に頬を擦り寄せた。
「ネリー。そこは私の場所ですよ。一人用の寝台では、身体の疲れが取れませんから、あなたの寝台へ移りなさい」
カエラムが困惑した声で近づいてくる。
彼は、このままでは自身の理性が朝まで保たないことを明確に自覚しているようだった。
しかし、コルネリアは毛布から腕を伸ばし、近づいてきた彼の手首を強い力で捕まえた。
「嫌ですわ。ネリーが寂しいと言っているのですから、先生は今夜、ここで一緒に眠らなければなりませんわ」
彼女は自身が放ったネリーという名前に彼がどれほど弱いかを知り尽くしており、それを最大の武器として彼を寝台へと強引に引きずり込んだ。
バランスを崩したカエラムが、抗うことを諦めて彼女の隣へと身を横たえる。
大柄な男性が一人で寝るための幅しかない、極めて狭い寝台である。
二人が並んで横たわれば、身体を密着させなければ床に落ちてしまうほどの距離感。
カエラムは観念したように深い息を吐き出し、彼女が落ちないように自身の太い腕を彼女の腰に回し、その華奢な身体を己の胸の中へと完全に閉じ込めた。
「……本当に、あなたは恐ろしい人だ。私があなたに逆らえないことを、よく分かっている」
「ふふっ。先生の体温、とても温かいですわ……おやすみなさい、カエラム先生」
彼の心臓の音が、自身の鼓動と重なり合うように耳元で響いている。
狭い寝台の上で隙間なく抱きしめられ、コルネリアはこれまでにないほどの絶対的な安心感と幸福感に包まれた。
白ワインの芳醇な余韻と、互いの存在を求め合う熱。
初夏の夜風が窓を揺らす音を子守唄に、二人の関係が確かな一歩を踏み出した夜は、どこまでも甘く――そして、深い安らぎに満ちて更けていくのだった。




