107 先生が私なしでは生きていけなくなってしまっても、私は一向に構いませんわ
深い森の奥、木々が夜の冷気を帯びて静かに眠りにつく頃。
診療所の窓からは、昼間の喧騒とは異なる、どこか落ち着いた暖色の灯火が溢れていた。
今日は朝から近隣の村で起きた急な流行り風邪への対応や、季節の変わり目に合わせた大量の薬草の選別作業が重なり、二人にとっては息をつく暇もないほど忙しない一日であった。
コルネリアは自身の担当していた棚の整理をようやく終えたが、ふと視線を向ければ、カエラムはまだ診察用の机に向かい、眉間に微かな皺を寄せながら分厚い書物と格闘している。
羽ペンが羊皮紙の上を滑る音だけが、静まり返った診療所に規則正しく響いていた。
一度集中すると周囲の状況が一切目に入らなくなる彼の性質を、コルネリアは誰よりもよく知っている。
彼女はそっと診療所の扉の鍵を閉め、エプロンの紐を締め直すと、台所へと向かった。
カエラムをこのままにしておけば、彼は空腹すら忘れ、夜が明けるまであの硬い椅子に座り続けてしまうだろう。
コルネリアは氷箱の中から、昨日グリンダが届けてくれたばかりの、朝搾りの乳で作られた瑞々しいフレッシュチーズを取り出した。
さらにその隣には、タツィオが森で仕留めた獲物を丁寧に加工し、グリンダと共に作り上げたという立派なソーセージが、誇らしげな重みを湛えて並んでいる。
――今夜の献立は、これら友人の真心が詰まった食材を主役にしたチーズフォンデュに決めた。
コルネリアは大きな陶器の鍋を用意し、その底ににんにくの断面をこすりつけて香りを移していく。
チーズを細かく刻んで鍋に入れ、少しの火を加えれば、室内の空気は一瞬にして濃厚で芳醇な香りに満たされた。
具材として用意したのは、初夏を目前に控えて水分をたっぷりと含んだアスパラガス。
それを軽く色づく程度に茹で上げ、さらに皮を剥いたばかりの新じゃがや、甘みの強いにんにくを添える。
仕上げに、トコトコベイクで購入した、野菜の練り込まれた色鮮やかなパンを一口大に切り分けた。
準備がすべて整ったところで、コルネリアは一度大きく深呼吸をし、作業に没頭するカエラムの背後へと歩み寄った。
彼はまだペンを止める気配がなく、アンバーの瞳は活字の海を必死に泳いでいる。
コルネリアは彼の広い肩に、自身の手をそっと置いた。
「先生。素晴らしいご馳走が整いましたわ。一度筆を置いて、温かいお食事にいたしましょう」
カエラムは一瞬、何が起きたのか理解できないように身体を強張らせたが、彼女の声を聞くと同時に、憑き物が落ちたように大きく息を吐き出した。
彼は丸メガネの位置を指先で直し、ゆっくりとコルネリアの方を振り向いた。
「……ああ。もう、そんな時間でしたか。集中するあまり、時計の針の動きに全く気づきませんでした」
「ええ。もう夜も更けておりますわ。さあ、こちらへ」
コルネリアが彼の手を引き半ば強引に円卓へと促すと、カエラムは苦笑を浮かべながらも、その柔らかな誘導に従った。
円卓の椅子に腰を下ろした瞬間、カエラムの鼻腔を、とろとろに溶け合ったチーズと香ばしい肉の匂いが刺激した。
「コルネリアさんがいてくれなかったら、私はまた数日の間、食事という行為そのものを忘れて過ごしていたでしょうね」
カエラムの低い声が診療所に響く。
その言葉には、自身の生活能力の欠如への自嘲と、それを補って余りある彼女の存在への深い感謝が込められていた。
コルネリアは彼のその正直な告白に、ペリドットの瞳を優しく細めて微笑み返した。
「私がここにいるのは、先生を支えるためですもの。先生が私なしでは生きていけなくなってしまっても、私は一向に構いませんわ」
彼女の愛らしい――そして、揺るぎない覚悟を感じさせる言葉に、カエラムは胸の奥を激しく締め付けられるような感覚を覚えたが、それを隠すようにして温かなフォンデュの串を手にした。
まずはタツィオ特製のソーセージ。
チーズをたっぷりと絡めて口に運べば、燻製された肉の野性味あふれる旨味と、チーズのクリーミーなコクが口の中で完璧な調和を奏でる。
「……これは、驚異的な美味しさですね。肉の塩気とチーズの甘みが、疲れきった身体の隅々にまで染み渡るようです。グリンダさんとタツィオ君の連携が、これほどまでに素晴らしい味を生み出すとは」
「ええ。お二人が楽しそうにお肉を捏ねている姿が浮かびますわ。それに、この野菜パンのほのかな甘みも、チーズとの相性が抜群ですの」
二人は、賑やかだった昨日の騒動――グリンダがお姫様抱っこで担ぎ込まれてきた光景や、タツィオの照れくさそうな表情――を肴に、静かで穏やかな夕食を楽しんだ。
チーズが糸を引き、鍋から立ち昇る湯気が二人の顔を優しく包み込む。
「これほど贅沢な味わいを前にすると、やはり……きりっと冷えた白ワインが欲しくなりますね。果実の酸味が、この濃厚な脂をさらりと流してくれそうです」
カエラムがふと、贅沢な悩みを口にする。
コルネリアもそれに同感するように頷いたが、すぐに周囲に広がる薬草の束や、まだ残っている資料に視線を向けた。
「ふふっ、本当にそうですわね。ですが、お互いにまだ片付けたいお仕事が残っておりますでしょう? 今夜は清らかな湧き水で我慢いたしましょうね」
「その通りです。責任感の強いあなたに、そう言われては返す言葉もありません。ですが……すべての仕事が終わった後には、私がとっておきの薬草茶を淹れますよ。あなたの眠りを、最高に穏やかなものにするための特別な一杯を」
カエラムが彼女の指先にそっと触れ、交わされる静かな約束。
ワインという贅沢な酒精がなくとも、今の二人にとっては互いの瞳に宿る深い情愛だけで、十分に酔いしれることができるのかもしれなかった。
食事が終わる頃には、カエラムの顔から深い疲労の色が消え、いつもの冷静で力強い眼差しが戻っていた。
彼はコルネリアが皿を片付けようとするのを制し、彼女の隣へと静かに歩み寄った。
そして、彼女の美しいホワイトブロンドの髪にそっと触れ、その滑らかな毛先を愛おしむように、長く美しい指先で優しく梳いた。
「……ありがとう、コルネリアさん。あなたのおかげで、明日もまた私は、迷うことなく患者たちの前へ立つことができます」
髪を撫でるカエラムの大きく温かい手の感触と、少し低い声に乗せられた重い愛情に、コルネリアの胸の奥は甘い幸福感で満たされていく。
「あなたが私の隣にいてくれること。その事実に、私は毎日、神の理に感謝せずにはいられません」
コルネリアは自身の髪を撫でる彼の手をそっと押さえ、窓の外に広がる初夏の夜空を見上げた。
「私も、同じですわ、先生。先生の支えになれることこそが、私の何よりの誇りなのですから」
窓の外では、季節の移ろいを感じさせる涼やかな夜風が木々を撫で、二人を祝福するように無数の星々が瞬いていた。
慌ただしい一日の終わりに訪れた、二人だけの温かな円卓の時間。
それは、これから訪れる新しい季節への期待と、二人の間に流れる永遠にも似た穏やかな愛情に満たされながら――夜の静寂の中へどこまでも優しく溶け込んでいくのであった。




