106 私たちも、彼らに負けてはいられませんね
森を吹き抜ける風が、かすかな湿気と少し汗ばむような熱を帯び始めた初夏目前の昼下がり。
木々の葉は春の柔らかな薄緑色から、力強い生命力を感じさせる色濃い緑へとその姿を変え、太陽の光を遮る立派な天蓋を形成し始めていた。
午前中の診療と、薬草の棚の整理を滞りなく終えたカエラムとコルネリアは、少しだけ開け放たれた窓枠の傍に立ち、二人で並んで裏庭の景色を眺めていた。
視線の先にあるのは、春の初めに種苗商のエルマーから譲り受け、二人で丁寧に種を蒔いたファノーネのための特別な牧草地である。
冬の間は荒涼としていた土の上には、今や三種類の牧草が驚くべき速度で背丈を伸ばし、青々とした緑の絨毯を作り上げていた。
風が吹くたびに草の海が波打ち、大地の豊かな香りが窓辺まで運ばれてくる。
馬小屋の前に繋がれたファノーネは、自身の目の前で美味しそうに育っていくその草の海に向かって長い首を伸ばし、鼻先を擦りつけるようにして匂いを嗅いでいた。
「ファノーネは、自分のための極上の食事が育っていることを完全に理解しているようですね。早く食べさせろと、しきりに鼻を鳴らしていますよ」
カエラムが丸メガネの位置を直し、愛馬の待ちきれない様子を見て穏やかな笑みをこぼした。
コルネリアもまた、窓から身を乗り出してファノーネへと優しく声をかける。
「もうすぐですよ、ファノーネ。もう少しだけ背が伸びて、栄養を限界まで蓄えたら、一番美味しいところを刈り取って差し上げますからね」
彼女の言葉を理解したのか、ファノーネは少しだけ残念そうに短い呼気を漏らした後、大人しく自身の水桶へと顔を戻した。
その賢く愛らしい相棒の姿に、二人は顔を見合わせて微笑み合い、昼食の準備のためにキッチンスペースへと向かった。
本日の昼食の主役は、昨夜の奇跡的な偶然によって崖崩れの跡から手に入れた、野性味あふれる春の山菜――行者にんにくである。
これに合わせるのは、以前狩人のタツィオから譲り受けていた、保存の利く燻製肉。
コルネリアは分厚い燻製肉を細長く切り分け、熱した平鍋に敷いたオリーブの油の中へと滑り込ませた。
弱火でじっくりと熱を加えることで、肉の奥に閉じ込められていた良質な脂が溶け出し、燻された木材の深い香りが台所全体を包み込んでいく。
肉の縁がカリカリになるまで炒めたところで、切り分けた行者にんにくを一気に投入する。
油と絡んだ瞬間に、強烈で食欲を掻き立てる香りが爆発的に広がり、カエラムもたまらずに深く息を吸い込んだ。
そこへ、隣の鍋で絶妙な硬さに茹で上げたパスタを、少量の茹で汁と共に加える。
油と水分を素早く乳化させながら、風味付けの醤油を鍋肌に沿って回し入れた。
醤油の焦げる匂いと行者にんにくの鮮烈な風味が麺の一本一本に絡みつき、活力を呼び覚ます極上の一皿が完成した。
円卓に向かい合って座り、手を合わせてから二人は熱々のパスタを口へと運んだ。
燻製肉の強い塩気と深いコク、そして行者にんにくが持つ独特の刺激と甘みが噛むたびに口の中で完璧な調和を見せる。
「……これは、素晴らしい活力の源ですね。初夏の暑さで少しだけ疲労を感じていた身体の奥底から、力が沸き立ってくるのが分かります。素材の力強さを、あなたの調理がさらに一段上の味わいへと引き上げている」
「ありがとうございます、先生。偶然手に入れた大地の贈り物と、タツィオさんが丁寧に仕込んでくださったお肉のおかげですわ。これで、午後からの調合のお仕事も頑張れそうです」
満足げに皿を空け、食後の冷たいお茶で口の中をすっきりと洗い流していた時のこと。
森の入り口に続く小道から、落ち葉を激しく蹴立てる慌ただしい足音が近づいてきた。
何事かとカエラムが立ち上がり、扉の方へ視線を向けた直後――。
分厚い木の扉が、外側から乱暴に蹴り開けられるようにして押し開かれた。
「先生! いるか! 急患だ!」
飛び込んできたのは、息を切らした狩人のタツィオだった。
そして驚くべきことに、彼は自身の力強い両腕の中に、丘の向こうの牧場で働く少女――グリンダの身体を抱え上げていたのである。
「ちょっと、タツィオ! だから私は自分で歩けるって言ってるじゃないの! 恥ずかしいから早く下ろしてよ!」
タツィオの腕の中で、グリンダが顔をりんごのように真っ赤に染め上げ、彼の胸板をぽかぽかと叩いて抗議している。
しかしタツィオは彼女の抵抗など全く意に介さず、必死の形相でカエラムへと訴えかけた。
「馬鹿言え! あんな巨大な牛に足を踏まれたんだぞ。もし骨にヒビでも入ってて、無理に歩いて悪化したらどうするんだ! 先生、早くこいつの足を診てやってくれ!」
状況を即座に把握したカエラムは、彼を宥めるように両手を前に出し、窓際の診察台へと二人を誘導した。
タツィオが慎重にグリンダを台の上へと降ろすと、コルネリアがすぐに患部を確認するための布と、冷却用の薬水を用意してカエラムの横に控えた。
「大丈夫ですよ、タツィオ君。落ち着いてください。グリンダさん、少しだけ痛みますよ」
カエラムはグリンダの右足の靴下を丁寧に脱がせ、少し赤く腫れ上がっている足の甲から足首にかけて指先で触診を行っていった。
彼が患部を押さえるたびにグリンダは小さく身をよじるが、カエラムの表情に険しさが浮かぶことはなかった。
「……うん。安心してください。骨には一切の異常はありません。筋も無事です。巨大な牛に踏まれたにしては、随分と軽い打撲で済んでいますね」
カエラムの診断を聞いた瞬間――タツィオは肺の中の空気をすべて吐き出すようにして、長椅子へと崩れ落ちた。
グリンダもまた、少しだけバツが悪そうに唇を尖らせた。
「だから言ったじゃない。サンディーを別の牧草地へ移動させようとした時、あの子が少しだけつまずいて、私の足に軽く体重がかかっちゃっただけなのよ。すぐにどいてくれたし、私は全然平気だったのに、たまたま通りかかったタツィオが血相を変えて飛んできて……」
「当たり前だろ! あんたは痛みに鈍感すぎるんだ。前だって、罠に素手で挑んで大怪我したくせに平気な顔をしてただろ。目の前で怪我をしてるのを放っておけるわけないだろうが」
タツィオが少しだけ声を荒げて反論すると、グリンダは言い返す言葉を見失ったのか、さらに顔を赤くしてうつむいてしまった。
冬の日に起きた罠の事故。
あの時のタツィオの絶望と後悔を、カエラムとコルネリアは痛いほどに覚えている。
彼が過剰なほどに彼女を心配するのも、無理のないことだった。
コルネリアは微笑みながら、カエラムから受け取った冷却効果のある薬草の布を、グリンダの足の甲へと丁寧に巻きつけて固定した。
「数日冷やしておけば、腫れも完全に引くはずですよ。それまでは、あまり無理に歩き回らないようにしてくださいね」
処置が完了し、グリンダが診察台からゆっくりと足を下ろす。
彼女はタツィオに向かって小さく「……心配かけて、ごめんね」と呟いた後、自身が首から下げていた荷袋から、丁寧に布で包まれたいくつかの品物を取り出して円卓の上へと置いた。
「先生、コルネリアさん。今日ここへ来ようとしていたのは、怪我のせいだけじゃないの。これ、お二人に食べてほしくて持ってきたのよ」
布を開くと、そこには牧場で今朝絞られたばかりの濃厚な乳から作られたという、丸く美しい手作りのフレッシュチーズ。そして、少しだけ不格好ながらも、中身がぎっしりと詰まった太い手作りソーセージが数本並んでいた。
「まあ……とても美味しそうなチーズとソーセージですわ」
「ふふっ。チーズは私が作ったんだけどね、このソーセージのお肉は、タツィオが森で仕留めてきてくれたもので、腸詰めにする加工も彼が手伝ってくれたのよ。二人で一緒に作った、自信作なの!」
グリンダが満面の笑みで胸を張って報告すると、長椅子に座っていたタツィオは慌てて立ち上がり、日焼けした顔を耳まで真っ赤に染め上げてそっぽを向いた。
「お、俺はただ、肉が余ってたから持って行ってやっただけだ! あいつが一人じゃ腸詰めも満足にできないって言うから、仕方なく手伝ってやっただけで……」
「えー? あんなに楽しそうにお肉を捏ねてたくせに!」
慌てて言い訳を並べるタツィオと、彼をからかうように笑うグリンダ。
冬の事故をきっかけに出会った二人が、今や共に作業を行い、一つの食料を作り上げるほどに親密な関係を築いている。
その事実を目の当たりにし、カエラムとコルネリアは顔を見合わせて、親のような眼差しで微笑み合った。
「ありがとうございます。お二人の見事な連携が生み出した恵み、明日の食卓で大切にいただきますね」
カエラムが心からの感謝を伝えると、二人は照れくさそうに笑い合った。
――診療所での休息を終え、二人は帰路につくこととなった。
「ほら、帰るぞ。足に負担をかけないように、背中に乗れ」
タツィオが当然のように自身の広い背中を向けてしゃがみ込む。
グリンダは「もう、本当に大げさなんだから」と口では文句を言いながらも、その手は迷うことなく彼の肩へと回され、しっかりと背中におぶられた。
「先生、コルネリアさん、またね! 今度は二人で遊びに来るわ!」
グリンダが元気に手を振り、タツィオが彼女の重さを全く感じさせない力強い足取りで歩き出す。
初夏の陽光が降り注ぐ森の小道を、口喧嘩をしながらもどこか楽しげに帰っていく二人の姿。
「……彼らの距離も、冬の頃に比べて随分と縮まったようですね。あの様子なら、彼が彼女を不幸にすることなど絶対にないでしょう」
遠ざかる背中を見送りながら、カエラムが目を細めて穏やかに語る。
コルネリアもまた、隣に立つカエラムの腕にそっと自身の腕を絡ませ、深く頷いた。
「はい。お互いのことを本当に大切に想い合っているのが、伝わってきますわ。私たちも、彼らに負けてはいられませんね」
彼女の愛らしい宣言に、カエラムは低く笑い声を漏らし、彼女の肩を優しく抱き寄せた。
初夏の清々しい風が吹き抜ける中、若き二つの新しい絆を見届けた森の診療所は、これからの季節への期待と、変わることのない穏やかな愛情に満ちていつまでも優しく輝き続けていた。




