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冤罪で追放された伯爵令嬢は、森の奥の診療所で天才医師の胃袋を掴み、愛されながら幸せなスローライフを満喫します  作者: 白月つむぎ


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102 辛いのに、次々と手が伸びてしまいます

 陽春のうららかな陽射しが、木々の隙間を縫って診療所の板床に穏やかな明暗を描き出していた午後。


 カエラムとコルネリアは、春の野山で採取したばかりの新しい薬草群を種類ごとに仕分けし、保存用の瓶へと丁寧に収める作業を続けていた。

 淡い紫色の花弁を持つ鎮静ちんせいの薬草や、鮮やかな緑色をした解毒の葉など、大地の恵みが円卓の上に美しく並べられている。


 静かな時間が流れる中、突如として森の奥から、枯れ枝を踏み折る不規則な足音と、震えるような悲痛な声が聞こえてきた。


「……助けるヨロシ……もう、一歩も足が動かないアル……」


 分厚い木の扉が重たげに押し開かれ、敷居を跨ぐと同時に、一つの小さな影が長椅子へと力なく倒れ込んだ。

 彼女の頭部には、特徴的なおだんご状の髪を包み込む細工の施されたシニヨンキャップ。

 そこからこぼれ落ちる銀髪には、幾枚もの広葉樹こうようじゅの枯れ葉や細かい小枝が無数に絡みついている。


 かつてこの場所で保護され、街へと旅立っていったはずの異国の行商人――ユエフーだった。


「ユエフーさん!? 一体どうなさいましたの、ひどくお疲れのようですが……」


 コルネリアが驚きと共に駆け寄ると、ユエフーはスフェーンの瞳に大粒の涙を浮かべ、すがりつくように手を伸ばした。


「お姉ちゃん、カエラム先生……会いたかったヨ。ここへ来るまでに、三日三晩、森の木々と睨み合いながら道に迷い続けたアル……」


 ただ事ではない疲労困憊ひろうこんぱいの様子に、カエラムも薬草を置いて立ち上がる。


 コルネリアは急いで台所へ向かい、グラスに冷たい水を注ぎ、さらに蜂蜜にじっくりと漬け込んでおいた果実を小皿に乗せて彼女の元へと運んだ。

 ユエフーは水を一息に飲み干し、甘い果実を口に含むと、目に見えて顔色に生気を取り戻していった。

 幾度も過酷な旅を乗り越えてきた行商人ならではの、驚異的な回復力である。


「生き返ったヨ……! さすが命の恩人ネ、優しい甘さが空っぽの胃袋に染み渡るアル」


 大きく息を吐き出して円卓の椅子へと座り直したユエフーは、背負っていた巨大な荷袋を横に置き、自慢げに鼻を鳴らした。


「実はネ、前に先生たちに助けてもらった後、無事に街に辿り着いて商売を始めたアル。そうしたら、私の故郷の珍しい香辛料や調味料が、街の人たちに大好評だったヨ! 並べた傍から飛ぶように売れて、あっという間に品切れになるくらい、爆売れしたネ!」


「それは素晴らしいですね。あなたの持つ異国の知識と品物が、街の人々の舌に新たな喜びを与えたのでしょう」


 カエラムが丸メガネの位置を直し、穏やかに微笑む。


「そうアル! だから今日は、その大成功のお礼に、とびきり極上の調味料を恩人たちに届けに来たヨ。まさか、ここへ辿り着くまでに三日も迷うとは思わなかったけれどネ」


 後半は少し気まずそうに視線を逸らした彼女であったが、すぐに気を取り直し、荷袋の奥底から厳重に封をされた一つの小さな壺を取り出した。


「これを見るヨロシ。強烈な辛味の奥に、言葉では言い表せないほどの深い旨味を隠し持った、深紅しんく発酵調味料はっこうちょうみりょう……その名も豆板醤トウバンジャンアル!」


 壺の蓋が開かれると、鼻腔を突き抜けるような刺激的な香りと、熟成された豆の芳醇ほうじゅんな匂いが円卓の周囲に立ち昇った。

 中には、鮮烈な赤色に染まった粘度のある調味料がたっぷりと詰まっている。


 その素晴らしい香りにコルネリアがペリドットの瞳を輝かせていると、ユエフーの鋭い視線が、台所の隅に置かれている保冷用の氷箱を捉えた。


「お姉ちゃん、あの箱の中に、極上の海の幸が眠っている気配がするヨ……」


「まあ、鋭いですわね。実は先日、漁師のモゼさんが大きな車海老をたくさん届けてくださって、まだ氷の中で新鮮なまま残っておりますの」


 その言葉を聞いた瞬間、ユエフーのスフェーンの瞳に料理人としての情熱の炎がはっきりと灯った。


「決まったネ! その立派な海老と、私の持ってきた豆板醤を合わせれば、世界で一番美味しくて力強い料理が完成するアル! 私が腕によりをかけてエビチリを作って、最高のお礼にするヨ!」


 ユエフーの宣言と共に、台所は活気に満ちた厨房へと姿を変えた。

 コルネリアが助手として横に立ち、まずは車海老の殻を丁寧に剥き、背わたを取り除いていく。

 下処理を終えた大ぶりの海老の身に、細かく挽いたでん粉を薄く纏わせる。


 熱した油の入った平鍋へそれを滑り込ませると、油がぱちぱちと弾ける音と共に、車海老の表面がうっすらと紅色に色づき始めた。

 身が硬くなりすぎる前に素早く油から引き上げるという、ユエフーの絶妙な火加減の指示が飛ぶ。


 続いて、別の鍋に新鮮な油を敷き、細かく刻んだ生姜とにんにく、そして小口切りにした青ネギをたっぷりと投入する。

 熱が加わるにつれて香味野菜の匂いが広がり始めたところへ、主役である豆板醤が豪快に落とされた。


 鍋肌で調味料が焦げる強烈な匂いが立ち昇り、むせ返るような刺激と食欲を掻き立てる香ばしさが診療所の空気を完全に支配した。

 待合室にいたカエラムでさえ、思わず喉を鳴らしてしまうほどの圧倒的な香りである。


 そこへ、果実の酸味と甘みを加えた特製のタレを注ぎ込み、先ほど油を通した車海老を戻し入れる。

 強火のまま一気に鍋を煽ると、真っ赤に照り輝く濃厚なタレが肉厚な車海老の身に隙間なく絡みついていった。


「完成アル! 熱いうちに食べるヨロシ!」


 大皿にこんもりと盛り付けられた色鮮やかなエビチリが円卓の中央に置かれ、三人はすぐさま食卓を囲んだ。


 カエラムが木の匙で海老を一つ掬い上げ、口へと運ぶ。

 瞬間――豆板醤の持つ燃えるような辛味が舌を刺激し、それに続くように生姜とにんにくの強烈な風味が鼻腔を突き抜ける。


 しかし、ただ辛いだけではない。

 でん粉の衣に包まれた車海老の身を噛み締めると、中から信じられないほど濃厚な海老の甘みが溢れ出し、辛味と見事な均衡を保って極上の旨味へと昇華されていく。


「これは……驚異的な美味しさです。燃え上がるような刺激の奥に、海老の甘みがこれほどまでに際立つとは。濃厚なタレの味わいは、白米を無限に求めたくなる魔力を持っていますね」


 カエラムが大絶賛すると、コルネリアも額に微かな汗を滲ませながら何度も頷いた。


「本当ですわ。辛いのに、次々と手が伸びてしまいます。ユエフーさんの故郷の調味料は、本当に素晴らしい力を持っていますのね」


 二人の心からの賛辞を受け、ユエフーは得意げに胸を張り、自身もまた凄まじい勢いで大皿のエビチリを平らげていった。

 額に汗をかきながら刺激的な料理を堪能し、円卓には終始、賑やかな笑い声と活力に満ちた会話が飛び交った。


 ――食後、冷たいお茶で口の中の熱をしずめ、すっかり満足したユエフーは再び自身の巨大な荷袋を背負い上げた。


「美味しく食べてくれて嬉しいアル! 先生たちのおかげで、また商売を頑張る元気が湧いてきたヨ。街に戻ってさらに大儲けしたら、また最高のお土産を持ってくるネ!」


「ええ、あなたの活躍を祈っておりますわ。今度は、三日も迷わないように気をつけてくださいね」


 コルネリアが優しく微笑んで見送りの言葉をかけると、ユエフーは「任せるヨロシ!」と自信満々に親指を立てた。

 そして彼女は、診療所の扉を勢いよく開き、意気揚々とした足取りで外へと飛び出していった。


 ――しかし、彼女が何の迷いもなく真っ直ぐに突き進もうとしたその方角は、街とは完全に真逆の凶暴な熊の魔物が潜むとされる森の深淵しんえんへと続く獣道だった。


「あ……っ、ユエフーさん! そっちは逆ですわ!」


「ユエフーさん、何度言えば覚えるのですか! そちらは魔の領域です!」


 カエラムとコルネリアは顔を見合わせて血相を変え、すぐさま駆け出して、元気よく歩みを進める銀髪の少女の襟首を後ろから強く掴んで引き留めた。


「えっ? でも、私の優れた商人の直感が、あっちから大勢のお客さんの気配を感じ取っているアルよ?」


 自身の絶望的な方向音痴っぷりを微塵も自覚しておらず、不思議そうに首を傾げるユエフー。

 そのあまりにも変わらない危なっかしい姿に、引き留めた二人は思わず深い溜息を漏らし、直後に堪えきれないような温かい笑い声を森の中に響かせた。


 燃えるような深紅の料理がもたらした心地よい熱気と、どこか放っておけない小さな友人が運んできた賑やかな騒動――。

 森の診療所の穏やかな春の午後は、相変わらずの笑顔と活気に包まれながら、どこまでも明るく過ぎていくのであった。

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