100 一番良い状態で味わっていただきたいのです
西の空が柔らかな茜色から、夜の気配を帯びた深い藍色へと静かに移り変わろうとしていた夕暮れ時。
診療所の裏庭で、コルネリアが風に当てていたシーツを丁寧に取り込んでいると、森の奥から規則正しく土を蹴る重い蹄の音が近づいてきた。
音の主が診療所の前で歩みを止めた気配を感じ、コルネリアが急いで表へと向かうと、そこには逞しい馬の手綱を握る漁師――モゼの姿があった。
馬小屋の方からは、友人の馬の来訪を歓迎するかのように、ファノーネの穏やかな呼気が聞こえてくる。
燃えるような赤い髪を後ろで一つに束ねたモゼは、日焼けした肌に豪快な笑みを浮かべ、馬の背に積まれた巨大な荷袋や木箱を次々と地面に下ろしているところだった。
「コルネリアちゃん、こんばんは! 先生は中にいるかしら?」
「モゼさん! ようこそいらっしゃいました。先生もちょうど、本日の診察を終えられたところですわ」
モゼの元気な声を聞きつけ、白衣姿のカエラムも入り口から顔を出す。
彼の丸メガネの奥のアンバーの瞳が、モゼの足元に積まれた大量の木箱と麻袋を見て驚きに見開かれた。
「これはまた、随分と大荷物ですね。春の海は豊漁でしたか?」
「ええ、最高よ! 今日は春の南の海を丸ごと持ってきたんだから。さあ、暗くなる前に中に入りましょう!」
モゼの号令と共に三人は手分けして荷物を抱え、診療所のキッチンスペースへと移動した。
重い木箱の蓋を開けると、中には透き通るような美しい薄紅色の小さな殻を持つ桜海老が、籠いっぱいにぎっしりと詰まっていた。
さらに別の箱には立派な縞模様を持ち、まだ活きよく尾を跳ねさせる巨大な車海老が所狭しと並んでいる。
「春の南風が運んできた、とびきりの海老たちよ。それから、海のものだけじゃ飽きると思って、南の村の農家からとっておきの果物も譲ってもらったの」
モゼが麻袋から取り出したのは、南国の太陽をたっぷりと浴びて熟した、濃い山吹色をした果実――マンゴーであった。
部屋の中に、海老が持つ微かな潮の香りと、マンゴーのねっとりとした甘い匂いが混ざり合い、これからの宴への期待が嫌が応にも高まっていく。
「それにね、今日はこの海老たちに最高に合うお酒も持ってきたわ」
モゼが外套の内側から得意げに取り出したのは、琥珀色の蒸留酒が入った瓶と、清涼感のある香りを放つ緑色のミントの葉、そして果汁をたっぷりと含んだ柑橘類だった。
「これは……異国のお酒とハーブですね」
「そう! これらを使ってモヒートっていう爽やかなお酒を作るのよ。今夜はとことん飲んで、春の訪れをお祝いしましょ!」
モゼの快活な提案により、コルネリアはすぐさまエプロンの紐を締め直し、調理に取り掛かった。
まずは新鮮な桜海老である。
コルネリアは小麦粉と冷水を軽く混ぜ合わせた衣に、たっぷりの桜海老を絡ませた。
熱した油の中へそれを静かに落とし入れる。
油の表面で軽やかな音を立てながら、薄紅色の海老がふっくらと揚がっていく。
香ばしい匂いが立ち昇り、表面が心地よい硬さになったところで油から引き上げ、春の香りを閉じ込めた見事なかき揚げを完成させた。
続いて、メインとなる大ぶりの車海老の調理に移る。
コルネリアは車海老の背わたを丁寧に処理し、殻を残したまま背中に真っ直ぐな切れ目を入れた。
平鍋にたっぷりの油を敷き、細かく刻んだにんにくと香草、そしてわずかな辛味を持つ調味料を加えて弱火でじっくりと香りを引き出す。
そこへ下処理を終えた車海老を一気に投入し、強い火で勢いよく炒め上げる。
熱せられた海老の殻が鮮やかな朱色へと変わり、にんにくが焦げる猛烈に食欲を刺激する匂いが診療所の空気を完全に支配した。
異国の海辺の町で愛される料理、ガーリックシュリンプの完成である。
熱々の料理が円卓に並べられる間に、コルネリアはモゼが持参した材料でモヒートを作り始めた。
厚手のグラスにちぎったミントの葉を入れ、柑橘の果汁をたっぷりと搾り入れる。
すりこぎでミントの葉を軽く潰して爽やかな香りを引き出し、そこへ氷のように冷たい湧き水と蒸留酒を注ぎ込んで軽くかき混ぜた。
「さあ、お待たせいたしました。冷めないうちにいただきましょう」
三人はグラスを掲げ、小気味よい音を立てて乾杯を交わした。
まずはモヒートを一口飲む。
ミントの清涼感と柑橘の酸味が蒸留酒の強いアルコールを優しく包み込み、驚くほどすっきりとした飲み口となっている。
その爽快な味わいに感嘆の息を漏らした後、カエラムは熱々のガーリックシュリンプを指で掴み、豪快に殻ごと口へと運んだ。
「これは……素晴らしい。にんにくの強烈な風味と油のコクが、車海老の濃厚な甘みをこれ以上ないほどに引き立てています。殻の香ばしさも相まって、手が止まらなくなりそうだ」
「本当! 桜海老のかき揚げも、口の中で春の香りが弾けるわね。それに、この少し脂っこい料理を、ミントのお酒が綺麗に洗い流してくれる。最高の組み合わせよ!」
モゼも上機嫌でモヒートを煽り、次々と海老を平らげていく。
手や口の周りが油で汚れることなど一切気にせず、三人は夢中になって大皿の海老を口へと運び続けた。
ガーリックシュリンプの濃い味付けと、ミントが香る爽やかな酒の相性はまさに完璧であり、賑やかな会話を楽しむ間もなく、あっという間に山盛りだった海老の姿が消え去ってしまった。
海鮮の饗宴が落ち着いたところで、コルネリアは冷やしておいたマンゴーを手に取った。
熟れた果皮を薄く剥き、中央の大きな種を避けるようにして、鮮やかな山吹色の果肉を贅沢に大きく切り分けていく。
包丁が滑らかな断面を作るたびにたっぷりの果汁が溢れ出し、甘く濃厚な香りが広がる。
美しく切り分けたマンゴーを皿に並べ、食後の果物として二人の前へと提供した。
「うーん、この舌がとろけるような甘さがたまらないわね! 海老とにんにくで満たされた口の中を、優しくリセットしてくれるわ」
モゼが幸せそうにサファイアの瞳を細める。
カエラムもまた、果肉の柔らかな食感と深い甘みに静かに頷いた。
「ええ。南の国の太陽の恵みそのものですね。それにしても、コルネリアさんの包丁捌きは見事です。種の周りの果肉を一切無駄にせず、これほど綺麗に切り分けるとは」
「ふふっ。せっかくモゼさんが届けてくださった美味しい果実ですから、一番良い状態で味わっていただきたいのです」
コルネリアがペリドットの瞳を和ませて微笑むと、カエラムは愛おしげな視線で彼女を見つめ返した。
そのごく自然で甘やかな二人の空気を感じ取り、酒が回って頬を赤く染めたモゼが、肘をつきながらにやりと笑う。
「相変わらず、ごちそうさまって感じね。先生、コルネリアちゃんを泣かせたり悲しませたりしたら、私が漁の大きな網で海の底に沈めるからね。覚悟しておきなさいよ」
冗談めかして凄むモゼに対し、カエラムは表情を引き締め、真面目な声で返答した。
「彼女を悲しませるようなことは、絶対にありません。この穏やかな日常と彼女の笑顔を守ることこそが、今の私の何よりの喜びですから」
一切の迷いがない真っ直ぐな断言。
あまりにも真摯なその言葉に、コルネリアは顔を一気に朱色に染め上げてうつむいてしまった。
モゼは少しだけ呆気に取られた後、大きな声で楽しげに笑い出した。
「あははっ! 先生のその真っ直ぐな愛情、嫌いじゃないわよ。あー、美味いもの食べて、美味い酒を飲んで、すっかり満足したわ。ちょっと……休ませて……もらうわね……」
笑い疲れたのか、あるいはアルコールが急激に回ったのか。
モゼは立ち上がると、ふらふらとした足取りで待合室の長椅子へと向かい、そのまま横になった。
コルネリアが急いで厚手の毛布を掛けにいくと、彼女はすでに豪快で規則正しい寝息を立て始めていた。
嵐のようにやってきて、海辺の活気と美味しい恵みを残し、心地よい眠りにつく。
彼女の裏表のない性格に、二人は顔を見合わせて静かに微笑み合った。
診療所の窓から、夜の静寂を帯びた涼やかな風が入り込んでくる。
カエラムは長椅子で眠るモゼを見届けた後、再び円卓の席へと戻り、自身の隣に座るコルネリアへと向き直った。
「……モゼさんの言う通りです。あなたのその美しい笑顔を、私がずっと、一番近くで守り続けますからね」
カエラムが手を伸ばし、コルネリアの膝の上で重なっていた細い指先を自身の大きな掌で優しく包み込む。
コルネリアは彼の確かな体温を感じながら、ゆっくりと顔を上げ、彼のアンバーの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「はい、先生。私も、先生のおそばでずっと笑っていたいですわ」
室内に微かに残るモヒートのミントの香りと、マンゴーの甘い匂い。
南風が運んできた賑やかな宴の余韻は、互いを深く思いやる二人の穏やかな時間の流れの中に、どこまでも優しく溶け込んでいった。
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