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蝉しぐれ  作者: のどあめ


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3/4

その三

少し長いです。

 日が影ってきたが、石塀の道は続いている。水分を補給したおかげか、焦点があうように意識がはっきりして前後の記憶が戻ってきていた。


「そうだよ。俺、出張の帰りだよ。なんで忘れていたんだ。早く会社に戻って部長に報告しないと」


 自然と足早になる私を呼びとめる様に、私を呼ぶ声がした。


「淳(あつし)」

「淳(あつし)」

「お願いだ。戻ってきてくれ」


 どこかで聞いた声の方向を振り向くと道があった。石塀ばかり見ていて気がつかなかったのかと苦笑する。


『慌てていると、目の前の道を見落としてしまうものなの』 


「本当だ、ミチヨさんの言う通りだ」


 ◇◇◇


「広いものだから、なかなか手入れが行き届かなくて」


 そう苦笑しながら女の人は中に招き入れてくれた。門の向こうは鬱蒼と木々が生い茂り濃い影を作っている。滝と池がある苔むした庭園に光が差し込み、緑の海の中を歩いている様だ。


 庭を抜けた先には緑青色のとんがり屋根が特徴的な和洋折衷様式の屋敷があった。


 通された洋間には古ぼけたソファとローテーブル。奥にはマントルピースに背の高い柱時計。マントルピースには標本がいくつか飾られている。


「さあ、座って」


 ミチヨさんに促されて、少し色褪せた座面のソファに座らされた私は傷の手当てを受けた。魔法の様に動く彼女の細くて白い手を、私はぼうっと眺めていた。


「ごめんなさいね。こんな物しかなくて」


 と言いながら、彼女は手際よく赤い薬を傷口に塗り、ガーゼの上にガサガサした茶色の紙(あぶらがみ)をのせて包帯を巻いてくれた。


 黒髪から覗く雪の様に白い肌。

 少し切れ長な瞳を伏せると長いまつ毛がけぶるようだ。うつむく彼女の胸元からふわりと爽やかな花の香りが漂う。懐かしい香りだ。


「どうかしら」


 赤い唇が弧を描いていて、私はどきりとした。


「だ、大丈夫です。ありがとうございます」


 ぎごちなく礼を言う私に彼女はにっこりと微笑んだ。


「ちょっと待っていてね。暑いから喉が乾いたでしょ」


 しばらくして彼女が持ってきたのは切子細工のコップに入った冷たいお茶と水ようかんだった。勧められるままに私は口にした。


「あまい」


 冷たいお茶はすっと喉を通り、喉が乾いていたことに今更ながら気がついた。水ようかんもあっという間に食べてしまった。


 人心地がつくと、ミチヨさんは部屋にはおらず私は一人になっていた。薄暗い洋室にはクーラーが無く、古ぼけた扇風機が首を振りながら回っている。汗ばんだ肌に涼しい風が心地よい。 


 目の前には年季の入った柱時計。単調な秒針の音が眠気をさそう。


 いつしか私はうとうととまどろんでいた。水の中に浮かんでいるように身体がふわふわしている。小さな頃、母に抱かれていた時の様な安らかな気分だ。ずっとこうしていたい。


 ああ、遠くで水音が聴こえる。そういえば明日は水泳だなと夢うつつに考えていると。


「ミチヨ!まだかねえ!!」


 いらただしげに叫ぶ男の声で私は飛び起きた。目の前にはミチヨさんの顔が近くにあって、私は目を瞠った。彼女が紅い唇を満足そうに舐める様子に目が離せない。


「まあ。せっかく良く寝ていたのに。不粋ねえ、あの人ったら」


 慌てる風でもなく苦笑したミチヨさんは 


「はあい、まだですよ!」


 と男に向かって返事をするが、男は尚も叫ぶ。


「ミチヨ、腹が減ったよ。早くしてくれ!」

「はいはい、ただいま」


 そう言いながら、ミチヨさんは柱時計を見て慌てだした。


「あら、こんな時間。そろそろ食事の支度をしなくちゃ」


 忙しなく立ち上がるミチヨさんに帰る旨を伝えると、彼女は門まで送ってくれた。門の外はずっと石塀が続いている。クリーム色の土壁に等間隔に木柱が続く様は果てがないように見えた。


 戸惑う私に、ミチヨさんは安心させるように肩をぽんぽんと叩いた。


「貴方はどこから来たの?」


 私は首を傾げた……バイオリン教室に向かう途中、三瓶川にかかる太鼓橋を渡っている所でオニヤンマを見つけた。オニヤンマを追いかけた私はジグザグな坂――地元の子達は√に似た形からルート坂と呼ぶ――の階段を夢中で登っていったのだ。


「えっと。太鼓橋からルート坂を登っていったら、いつの間にかここに……」

「そう。太鼓橋から来たのね」


 ミチヨさんは綺麗に微笑む。なんだか眩しくて私は思わず目を細めた。


「なら、ここをまっすぐ進んでから左よ」


 彼女の白い指先が示す方向には、やはり延々と石壁が続いている。私は訝しげに彼女の顔を見た。


「本当に?」

「ええ。ルート坂から降りたところでしょ。すぐそこよ」

「えぇ?」


 なおも不信げに見る私にミチヨさんは困ったように笑うと諭すように話しかける。


「慌てていると、目の前の道を見落としてしまうものなの。大丈夫よ、ルート坂を思い浮かべながらまっすぐにお戻りなさいね」

「はい」


 私は恐る恐る歩き出した。


 蝉の鳴き声を聞きながら登ったルート坂。その先には太鼓橋――気がつけば私は太鼓橋の上にいた。


「しまった、バイオリンの時間!」


 私は急いでバイオリンの教室に向かう。息を切らせて教室に着くなり、先生は不機嫌そうに言った。


「先生、遅れました。ごめんなさい……」

「東條くん、十五分の遅刻よ……あら、その包帯。転んで怪我をしたの?」


 そこで私の顔を見た先生は息をのんだ。


「淳くん、大丈夫?……お顔が真っ赤よ」

「え?今、走ってきたから……ぜんぜん大丈夫、です」

「ちょっと、ごめんなさいね」 


 先生は私の額に手を当てるなり叫んだ。


「まあ、すごい熱。淳くん、少し休んでいて。すぐにお家に連絡するわね」


 急いで水を飲まされ、冷却シートで額を冷やされながら無理やりソファに寝かされた。空調の効いた部屋はとても涼しかった。母が迎えに来てすぐに私は病院に連れて行かれた。


 熱中症


 そう診断された。


「今日はそれほど気温が高いわけでも無いのにな。君、ちゃんと水飲んでた?」


 若い医師は短時間で脱水が進んでいたことに首を傾げていた。


 ミチヨさんの所でお茶を飲んでいたのに。子ども心に不思議に思った。


 ただの熱中症。その時はそう医師も母も思っていたのだった。

 

お読み頂きありがとうございます。

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