そのニ
大変お待たせしました。第二話です。
「それにしても暑いな」
私はネクタイを緩め、ペットボトルを取り出して水を飲む。水はボトルの四分の三ほど。道がまだ見つからない今、良く考えて飲まなければならないだろう。
陽光はじりじりと私の肌を焼く。石塀の向こう側からは時折、涼やかな風が吹いてくる。向こう側は涼しいのだろうな。蝉の音響の中、あちらへ向かいたくなる自分を叱咤しながら、私は再び歩き始めた。
戻らなければ。
どこへ?
東京へ。
意識はどこか朦朧としていて自分の名前すら思い出せないのに、不思議とそう思う。遠くで誰かの声が聞こえる。近くに人通りのある道があるのかもしれない。
『もう、ここに来てはいけませんよ。ここは貴方が来る所ではないの。貴方は……』
彼女の言葉が脳裏を掠めた。
しかし、石塀が目に入ると心配そうに私の顔を覗き込む彼女――ミチヨさんの面影が目に浮かぶ。
『ぼく、大丈夫?』
今の自分のことはぼんやりとしか思い出せないのに。昔会った彼女のことは何故かはっきりと思い出せる。
何か戻るきっかけがあるのかもしれない。私は彼女と初めて会った日を振り返る。石塀の道に迷い込んだあの時のことを。
◇ ◇ ◇
父の転勤で引っ越したその都市は歴史と自然が溢れていた。
あちこちに残る町屋と武家屋敷の面影を残す石塀、そして町中に巡らされた水路。雪解け水が流れる小川には小さな白い花を咲かせる水草が優雅に揺らめき、小魚や小蟹がその影から姿をのぞかせる。
味気ない新興住宅地で生まれ育った私には新鮮なことばかりだった。テレビや映画でしか聞いたことがないミンミンゼミやクマゼミの声。珍しい小鳥もこの町では見ることができるのだ。
そして、その日。バイオリンの稽古に向かう途中だった私は石塀の道に入り込んでいた。
「道が、見つからない。いったい、どうなってるの?」
夢中になってオニヤンマを追いかけていたら、迷い込んでしまった道。先ほどから進んでも戻っても延々と石塀が続いている。反対側はというと、こちらは草むらが延々と広がっている。自分の背の丈ほどの草むらに入り込む勇気も無く、私は困惑していた。
坂を登ってしばらくしたら戻るはずだった。少しだけ。そう思って寄り道したはずが大変なことになってしまった。かたんと背中に背負ったバイオリンケースが音をたてた。
つんざくような蝉の声。
どこまでも続く壁。
じりじりと炙るような日差し
全てが焦る私を追い立てるようだ。
息は自然と荒くなり、目の縁はじわじわと熱を帯び、口の中が乾いていく。
じわりと背中に嫌な汗が流れるのを感じたその時、メタリックグリーンの光が視界をかすめた。
目で追うと、オニヤンマが舞うように目の前を飛んできて、すぐ側のクリーム色の土壁にぺたりと張り付いた。手を伸ばせば届きそうな所で、見たことがないほど大きな蜻蛉が羽根を伏せてのんびりと止まっている。
その時、何を思っていたのだろうか。私はふらふらと壁に近づいた。ごつごつした灰色の岩に足をかけ、クリーム色の壁に向かって手を伸ばした。
しかし、被っていたキャップを被せようとするとオニヤンマはスイッと飛び立ってしまった。
「ああっ」
バランスを崩した私は岩から足を踏み外して壁からずり落ちた。ガツンと身体に走る衝撃と口の中に散る鉄の味。その瞬間、蝉の声がぴたりと止んだ。
「いってえ……。血がでてる」
両膝と左腕にできた大きなすり傷から血が滲み出す。あまりの痛さに私は涙目でその場にうずくまった。
気がつけば、辺りは嘘のように静まりかえっていた。風が吹き、壁の向こうの木々だけがざわめいている。こわいと思ったその時、チリーンと涼やかな音が鳴った。
ギイッと扉が開く音に振り向くと、さっきまでは石塀だったはずの所に立派な木製の門があった。息を止めて目を瞠ると、門の右隣にある小ぶりな通用口から着物姿の女性が姿を現した。
黒髪をまとめ涼やかな目元が目をひく。近づいた女性が私の目線に合わせてかがみ込むと、ふわりと花の様な香りが鼻をくすぐった。
「ぼく、大丈夫?怪我をしたの?」
綺麗な女性が心配そうに私を見つめていた。
お読み頂きありがとうございます。
後日、改稿するかもしれません。




