その一
頭の上から降ってくる音が耳元でたわむ様に反響する。
シャッシャッシャッシャッー
ミーンミンミンミンミンミーン
ジージージージー
耳鳴りを覚えた私は思わず手をついた。手をついた壁は明るいクリーム色。滑らかな見かけに反してざらついた感触が意識を覚醒させた。
「ここは……」
見上げると、見覚えがあるクリーム色の土壁にちょこんと乗る小さな屋根瓦。ちょうど私の肩のあたりから土壁は濃灰色のゴツゴツとした石組に変わり、緩く傾斜を描いていく。塀は延々と続き、果てがない。
石塀の向こうには背の高い樹木が涼し気な影を作り、蝉が思い思いに鳴いている。
「どうして。いつの間に、ここへ」
さっきまで確かに東京にいたはずだ。ここは新幹線で何時間もかかる地方都市。わざわざ来る理由も心当たりもない。これまでの記憶は朧げで……どうしても思い出せない。
考えている間に太陽は前方右側からじりじりと照りつける。
額から滲み出る汗は大判のハンカチで拭っても拭っても吹きでてきた。
ゴクリと喉が動く。
あの時のようだ。
『もう、ここに来てはいけませんよ』
幼い私にあの人は言った。
まとめ髪のおくれ毛からのぞく抜けるような白いうなじ。
着物の襟からふわりと漂う香り。
白い面に鮮やかに浮かぶ紅い唇。
汗がじとりと流れた。
いけない。
私はビジネスバッグからペットボトルを取り出した。
「あ」
内側チャックのフックに紺紫の紐だけがぶら下がっていた。構わずにミネラルウォーターを飲んで人心地がついた私は改めて周囲を見回す。
足を踏み出すか、元の道を戻るか。
チリーン。
風鈴の音が風と共に誘うように耳をかすめるが、私は振り切る様に首を振った。そして向こう日の眩しさに背を向ける様に、私は踵を返し歩き出す。
今ならまだ戻れるはずだ。




