その四
少し長いです。
◇ ◇ ◇
無機質な機械音が響く病室。看護師が足早に患者の様子を見てはカルテに書き込み、点滴や酸素マスクの調整をしている。
初老の男がベッドに横たわる若い男の手を握っていた。
「淳、聞こえているか。淳」
呼びかけても応えはない。かつては日に焼けて快活に笑っていた息子。今、淳の顔は酸素マスクで隠れ身体は幾つもの管に繋がれている。青白く窶れた顔は儚げで亡くなった妻にますます似てきていた。
「お願いだ。淳、戻ってきてくれ。まだおまえとは話したいことが沢山あるんだ。おまえまで俺を置いていかないでくれ」
幼い息子の無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。淳とまともに話さなくなって何年がたつのだろう。
『もう母さんはいない。俺は母さんのいない家には帰らないよ。俺はあんたを父親とは思わない』
最後の息子との会話。彼が父を見る目は冷めていた。それでも。
「帰ってこい、淳。幸恵、頼む。淳を助けてくれ。この子を連れて行かないでくれ」
仕事に逃げ、癒しを他に求め、家庭から逃げ続けてきた東條 勲は懺悔をする様に俯いていた。
◇ ◇ ◇
「おや。道が戻っている」
見つけた筈の道が消え、また石塀の道に戻っていた。日は陰っている。先ほどよりは暑くはなく、喉は乾いていない。だからだろうか、不思議と切迫感を感じない。
「また聞こえる」
誰かが必死に私を呼んでいる。聞き覚えがある様な声だが、いったい誰だろう。
「あの時、母さんも必死に俺を呼んでたな」
笑いがこぼれた。母と一緒にミチヨさんを訪ねた時を思い出しながら、私は道を進む。蝉の声は少しずつ小さくなっていく。
◇ ◇
熱中症は大したことはなく、点滴を打つだけですんだ。回復した私は概ねいつもの生活に戻った。概ねというのは、母が私に過保護になったからだ。父は私ばかりを構う母を見ては不機嫌になり、両親はそれで言い争いをする様になっていた。
バイオリンの稽古からの帰り道、私はどうしても礼を言いたいと言い張る母とミチヨさんの屋敷へ向かっている。
「あれ?」
「淳、こっちで間違っていないの?」
紙袋を下げた母が不安そうに声をかけた。太鼓橋を渡り、ルート坂を登ったのだが。その先は左右に空き地が広がるばかりで石塀は見つからない。
「淳ったら、本当にこの道だったの?」
問いかける母に私は口をとがらせた。ついでに首から下げた水筒を振り回す。水筒の水がちゃぷちゃぷという。ついでに背中のバイオリンがカタカタと鳴った。
「迷ってたんだから詳しく覚えているわけないよ。……この道順であっているはず」「本当?」「多分ね」「多分って。頼りないわねえ」
母と言いあいをしながら歩いていると涼し気な音が耳をかすめた。百メートルほど先に石塀があり、遠くから喧しい蝉の鳴き声が聞こえてくる。
「あ、あった。お母さん。こっち、こっちだよ」「ちょっと、待ちなさい淳。淳ったら、あっ」
見つかった、夢では無かったんだ。嬉しくなった私は紙袋を持って走り出した。
「あつし、待って……」
遠くなる母の声を置き去りにして走り続けると木の門が現れる。門の前に影がちらりと見えた。ミチヨさんだ。私は嬉しくなって大声で叫んだ。
「ミチヨさん!」
ミチヨさんは買い物籠を肘に下げている。今日のミチヨさんは涼し気な水色のワンピースを着ていた。背中まで伸びる真っ直ぐな黒髪は艷やかで、黒髪からのぞく首はやはり白い。ミチヨさんは振り向いてから驚いた様に目を見開いた。目を細めながら私は彼女の顔を見上げた。
「あら、この間の怪我した僕?」
「はい。僕、東條 淳って言います。この間は手当てをしてくれて、ありがとうございました。あの、これお礼です。どうぞ」
私が紙袋を差し出すと彼女は慌てるように両手を振った。
「あらあら、そんな。気を使わなくても良いのに」
「お母さ……母がどうしてもお礼にと言って」
「そう。せっかくだからお茶でもどうか……」
「淳〜、淳〜、どこに行ったの?あつし〜」
その時、母が私を呼ぶ声が聞こえてきてミチヨさんは木戸の扉から手を引っ込めた。
「あら、お母様がいらっしゃってるの。貴方を呼んでいるわ」
母の声は近くなったり遠くなったりしながら、なおも聞こえる。ミチヨさんはどこか寂しげな瞳をして微笑んだ。
「必死で貴方を探してる。貴方のお母様は……淳さん、貴方を本当に大事にされてるのね」
ミチヨさんは少し俯いてから小声で「羨ましいわ」と呟いた。それから気を取り直す様に私に明るく声をかけた。
「さあ、早くお戻りなさい。お母様を心配させてはいけないわ」
「え、そうなの?お母さん、いつも怒ってばっかりだよ」
幼い私は首を傾げた。ミチヨさんは少し屈んで、私が首から下げている紺紫のお守りを手にとる。
「ずっと貴方を呼んでいるのは心配しているからよ。これはお大社さまのお守りね。厄除けによく効くって評判の」
「ああ、これバイオリンの先生がくれたんです。この辺の子は皆持ってるからって」
「そう、バイオリンの先生も貴方をとても気にかけているのね」
ミチヨさんの顔に影がさす。
「ミチヨさん、どうしたの。なんだかとても悲しそう」
「ああ、何でもないのよ。私、兄弟が多くてね。あまり親には構われなかったから、なんだか羨ましくなってしまって……。ああ、昔のことだからそんな顔しないで」
そこへギイッと木戸が開く音がしてミチヨさんは肩をぴくっと震わせた。
「ミチヨ。お客様かい?」
三十代位の男の人が顔を覗かせた。声が一緒だから、あの日にミチヨさんを呼んだ男と同じ人だろう。
明るいグレイのベストに揃いのスラックス。暑いのにきっちりとネクタイをしている。落ち着いた様子はあの日いらただしげに叫んでいた男とは別人の様だ。撫でつけた前髪に顕になった額は知的で、大学かどこかの偉い先生みたいだ。
一瞬、表情を固くしたミチヨさんは安心させるように私に微笑んでから私を隠す様に男の前に立った。
「ああ、コウタロウさん、態々ここまでいらしたの?ええ。この間のお礼ですって。ほら」
「ああ。ミチヨが手当てをした男の子だね。これはご丁寧に。かえって気を遣わせてしまってすまないね」
優しそうに微笑むコウタロウさんの言葉を遮る様に、母の叫び声がした。
「淳、あつし〜。ああ、やっと見つけたっ」
母が慌てた様子でこちらへ駆けてくる。コウタロウさんはそんな母をじっと見つめていた。
「コウタロウさん。喉が乾いたって言ってたわね。急いでお茶の支度をするわ。淳くん、わざわざありがとう。私たち、ここで失礼するわね」
「ちょっと、ミチヨ。まだ……」
ミチヨさんはコウタロウさんを押し戻すように中に入っていってしまった。あっという間に木戸が固く閉まるのを私は呆然と見守っていた。
「あつし!」
近くで母の声がするなり思いきり抱きしめられた。
「淳、勝手に先に行かないでよ。急に姿が見えなくなるから、お母さん心配していたのよ!ああ、見つかって本当に良かった。もう会えなくなるかと思った」
母は息を切らしながらも物凄い勢いで話し出す。抱きしめられた私は温かい気持ちになって、くすくすと笑ってしまった。お母さんは僕を大事にしてくれているんだ。
「そうだ、淳。お家の方は?」
「なんか用事があるみたいで中に入っちゃった」
「お礼は?」
「受け取って貰ったよ」
「……そう。あちらにも都合があるしね」
母は残念そうにため息をついたが、固く閉まる門を見て諦めたようだった。
「それにしても。立派なお屋敷ねえ。見てよ、この屋根瓦を使った立派な門。なかなか見られないわよ。古い町ならではねえ」
「中も立派だったよ」
「きっと代々の名家なのね。素敵だわあ」
母との帰り道、強い視線を感じて振り返った私は目を瞠った。
古くても立派だったミチヨさんの屋敷が廃屋になっている。緑青の屋根には穴が空き、白壁は蔦に覆われていて所々で壁が崩れている。薄曇りの二階のガラス窓から白い影がこちらを見つめている。
「なんだあれ」
影は大小二つ。人形の様だ。人形の目と口らしき位置にはただ黒い穴がぽっかりと空いていた。熱心に見つめている様であり、虚ろに口を空けている様にも見える。大きな人形と目があったと思った瞬間だった。
「ヒッ。グウゥ」
息が止まり心臓が締めつけられる。それでも大きな人形の空洞の様な目からなぜか目が離せない。締めつけが胸から首に上り始めた時、母が肩に手をかけた。途端に身体がふっと緩んだ。
「淳、大丈夫?具合が悪いの?」
やっと息ができる様になった私は大きく息を吐いた。
「何でもない、大丈夫」
「本当に?体調が悪くなる前に早く帰りましょう」
「うん、お母さん」
もう一度恐る恐る振り返ると、木に囲まれた緑青の屋根をした屋敷があった。古いけどどこも壊れていないし蔦も這ってもいない。
さっき見えたのは何だったのだろうか。ぼんやりとした違和感はあったが。母にぎゅっと手を繋がれてそんな事は忘れてしまった。母の手はとても温かかった。
「ほら、淳。帰るわよ」
こうして、母と夕陽に背中を押されるようにして私は帰宅したのだった。
ミチヨさんの屋敷で恐ろしい目に遭うことになるとは、この時の私は想像すらしていなかった。
完結まで感想は受付停止にします。申し訳ありません。




