確証なき救済
病室を仕切る薄いレースのカーテンを開けると、目ヤニで顔の汚れた老婆がおもむろにリモコンを手に取った。「ちょっと待ってな〜」静かな駆動音とともに、リクライニング式のベッドが彼女の上体を起こしていく。
その足元には、フードを目深に被った、黒いパーカーの少年が立っていた。まさか、こいつも死神?
それとも面識がないだけで、実は親戚の子どもだったりするのだろうか。
そもそも死神って、大鎌を持った黒装束の骸骨みたいなビジュアルではないのか? 昨晩に出会った老爺の方がまだ雰囲気はあったかもしれない。
「まだ朝ごはんも食べていなかったっや。毎日の楽しみは食事しかないのにな〜」
そう老婆は机に載ったピンク色のトレーに手を伸ばした。痩せ細った腕に繋がれたチューブが空色の入院着から覗いている。むらさきに染めていた髪の毛も色素が抜けてすっかり白くなっていた。
黒いパーカーの子どもには触れない方がいいかもしれないな。僕はそう判断して話を続けることにした。
「調子はどんな感じ?」
「もうほとんど寝て過ごしてるっや。起きるのは食べているときと、看護師さんに声をかけられたときくらいなもんだ」
子どもの頃に見ていたおばあちゃんは、よくカップラーメンやスナック菓子を好んで食べていたが、今は薄味の病院食だけだから余計に衰弱して見えた。
独特な訛りやイントネーションは健在のようだが、それ以外はすっかり僕の記憶とは違う存在になっているように感じた。
例えば、机に置かれているペットボトルの飲料水。昔は「お金がもったいないから水道水を飲めばいいのに、わざわざ水を買うなんて贅沢だ」と僕を非難していたのだ。それなのに今は同じことをしている。すぐに立ち上がったり、水を汲みに行くことすらも難儀になってしまったのだろう。
「ふーん、まあ元気そうじゃん」
僕は話の接ぎ穂を失って、適当な相づちを打った。
あれだけ見た目に気を遣って、毎月パーマをかけに行ったり、老人会でゲートボールに参加したりしていた人物が今や病床に臥せっている。もちろん加齢も原因としてはあるだろうが、罹患している病気が深刻なのかもしれない。
「ちょっと遅れちゃった」
慌ただしい足音を立てながら、母親がレースのカーテンを開いた。バッグから下着を取り出して「ばあちゃんが漏らしたときに、隣の患者さんに迷惑がかかると悪いから」と言って、テレビ台の棚の中にしまい込んだ。
「あんたも来てたんだ」
品定めをするような意地悪な視線が僕に向けられる。赤茶色に染めた髪の毛、太めの体型をごまかすために着用されているであろうワンサイズ大きめの服装。醜い素顔を隠すように小綺麗な化粧も施されている。
「もっと薄情者だと思ってた」
感情が読み取れない声色で呟かれた瞬間に、僕の心臓は跳ね上がった。正直、少年死神よりも何倍も怖い。僕は母親を直視できずに点滴パックのしずくの滴り落ちる回数を数えていた。
「どこに就職したのかはわからないけど、どうせ大企業からの内定はもらえてないでしょ。本当に世間体が悪いし、縁を切ってしまいたいくらいだわ」
母親は冗談めかして嘲笑を浮かべた。
反論できない僕は、胸を締め付けられるような気分だった。早くあの呪文を唱えて帰りたい。
「足が痛いっや。先生から薬もらわないといけねわ」
おばあちゃんが空気を読まずに、箸をおいて足をさすった。よく見ると朝ごはんもかなり残している。運動不足のせいで消化器系も弱っているのかもしれない。
「ああ、そう。でも、薬は高いから必要ないでしょ。どうせ加齢による衰えが原因だし。根本的な治療ができないならお金の無駄だから、我慢すればいいんじゃない?」
母親は服についた毛玉を除去しながら、そう冷たくあしらった。その指は前に会ったときよりも、肥えて太くなっていた。もし結婚指輪を嵌めたままだったら抜けなくなっていたはずだ。
「さて、今日もちゃんとお見舞いしたし、世間的な見え方も完璧ね。じゃあね、おばあちゃん。おとなしくして、他の人たちに迷惑かけないようにしてね。それと、入院費がもったいないからなるべく早く退院するか、おじいちゃんに会いにいくなりしてね」
母親はそう亡くなった祖父の名前を話題にしてから、「さて、加齢臭が服に移る前に帰りましょうかね」とバッグを担ぎ直した。入れ違いで入ってきた看護師に向かって「いつもお世話になっております」と対人用のスマイルを向けることも忘れていない。
白衣を着た女性は、体調はどうですか? 朝ごはんがあまり減っていませんが、食欲は大丈夫ですか? 本日の日程は以下の通りになっていますので一緒に頑張りましょうね。と用箋挟の事項だけを説明して帰っていった。
誰も少年死神には触れていない。
やはり僕にしか視認できていないのだろうか。
テケレッツのパ。
確かこんな感じの呪文だったはずだ。
これを唱えてから、2回手を叩けばいいんだな。
昨夜の体験が夢でなければ、死神を退治できるはずだ。
「ちょっと寝させてもらうわ〜」
リクライニング式のベッドが傾斜を緩くしていく。そのとき老婆の目尻が少し濡れているように見えて、僕は余計に悲しくなった。
頼む、これで治ってくれ!
そう願いながら「テケレッツのパ」と詠唱して手を2回叩くと黒いパーカーの少年は姿を消していた。




