死神との邂逅
落語の演目「死神」を現代版にリメイクしてみました。
時刻はもう既に日付が変わるタイミングに突入していた。部屋の真ん中に置かれた扇風機が弱々しく首を振り、カーテンは風に揺れ、窓の外からはいまだに自動車の走行音が聞こえていた。
蒸し暑い夜だった。室内は暗黒に包まれている。
僕はパソコンの液晶画面に釘付けになっていた。「安楽死」に関するページに夢中になっていたのだ。
滞納した家賃の督促状が玄関の郵便受けに入ったままだが、まさかあの世までは取り立てに来ることはないだろう。これで俺はようやく解放される。
ネット通販でお目当ての商品をクリックして、カートに入れる。もう限界だ。資金繰りに悩むくらいなら、もういっそのこと現世ともおさらばしてやるんだ。
僕が確定ボタンを押そうとしたとき、背中からひんやりとした冷気を感じた。蒸し暑い熱帯夜にふさわしくない、まるでエアコンの冷房を入れたかのような感覚。もちろん入れた覚えなどない。
「あんた、死ぬのはいいが、後悔はないのか?」
聞き馴染みのない声。まさか借金取りか?
でも合鍵を差し込む音もしなかったし、何よりチェーンをかけているから、そんなにすぐには開かないはずだ。
そうだ、背後から声なんか聞こえるはずがない。
幽霊じゃあるまいし。気のせい、だよな。
僕が言い聞かせるように振り向くと、
「人間、死ぬ気になったら、案外なんでも、できるもんだぜ」
不気味な老爺がそこに座っていた。
いつからそこにいた? そしてこいつは誰だ? 不法侵入か? 戸締まりはは万全だったはずなのに。今すぐにでも逃げ出したい。だが、腰を抜かしてしまって動けない。心臓が早鐘を打つ。カーテンが靡いてうっすらと白い明かりが差し込んだ。
その男は、真っ黒なポンチョを頭から被っていた。隙間からは骨と皮だけの痩せこけた生気のない老体がのぞいている。陰になっているため表情はわからないが不気味な存在であることにかわりはなかった。
「どこから入ったんですか? 警察呼びますよ?」
思わず声が上ずった。
少しでも距離を取ろうと後ずさる。
もし襲ってくるならマウスでも投げつけてやろうと手に取った。
「そんなことはどうでもいい。あんた、死ぬつもりなんだろ?」
遠くで救急車のサイレンの音が鳴っている。
僕は言葉に詰まった。パソコンの液晶画面を見られたのだろうかと思って、あわててサイトを閉じる。
「医者の真似事を、やってみないか?」
たどたどしく言葉を紡ごうとする老爺を遮り、
「医者の真似事? 何をバカなことを。そんな頭がないからこんなひもじい生活をしているんでしょうが」
扇風機の送風が老爺に直撃する。フードがバサバサと揺れるが顔を見せる気配はない。その代わりに落ち窪んだ目元から怪しい眼球がぎらりと光った気がした。
「医者をやれとは言ってない。真似事だ」
「そんなのヤブ医者じゃないですか。ブラックジャックじゃあるまいし、医師免許も持ってない人間のもとに、誰が患者としてやってくるんですか?」
僕は謎の闖入者の存在をいつの間にか受け入れていた。すぐに追い返すこともせず談議に花を咲かせてしまっている。本当はこうやって誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
「人間の身体には、医学だけでは、まだまだ解明できていない、未知の情報が多く存在する。それに、医者よりも、オカルトに救いを求める人間も、一定数、存在する」
「無責任だ。僕なんかが、やっていいはずがない」
グレーのカーテンが網戸にビタッと張り付いた。
泥酔した観光客が、路上で何事かを怒鳴り散らしている。
「やるか、やらないかは、あんたが、決めろ」
「やらない」
「もし成功したら、大量の金が手に入るかもしれない。それでもやらないと、言い切れるのか?」
「大量の、金?」
本当にそれが手に入るならば、わざわざ自らの命を終わらせる必要もなくなる。どうせ何もしなくてもなくなる命だ。賭けてみてもいいかもしれない。
「話だけなら聞きましょうか」
「依頼のあった患者さんの家庭に、訪問診療をしなさい。大抵の場合は、私か、あるいは、似たような格好をした老爺が近くに立っている」
「何でまた不法侵入してる前提で話が進むんですか。もしかして常習犯ですか? いつも勝手に人の家にお邪魔してるんですか?」
「小僧、いい加減にしろ!」
そう痩せこけた老体が威圧すると、周囲の気温が一気に冷え込んだ。熱帯夜どころか、冷蔵庫の中にでも入ったような気分がした。
「続けるぞ」
茶化せるような雰囲気でもない。
僕は黙って唾を飲み込んだ。
「私みたいな格好をした人物が足元にいた場合、その病人は治すことができる。そのときは、“アジャラカモクレン、テケレッツのパ”。この呪文を唱えて、手を2回叩けば、翌朝には完治する。どうだ、難しい医療の言葉を覚えるよりも、いささか簡単だろう?」
「……長すぎて覚えられない」
「ふむ、江戸の時代から伝承される、由緒正しい呪文なのだがな。仏教の経典みたいな響きで覚えやすいだろうに。近ごろの若者は」
「江戸時代って、400年も前の呪文だから馴染みがないですよ。それならもっと縮めて“テケレッツのパ”だけでいいんじゃないですか? 寿限無の落語みたいに、悠長に唱えていたら事態は終息してましたってなったら笑えない」
「それでもいいだろう。同業者にも伝えておく」
「足元に老爺がいたら、テケレッツのパと言って2回手を叩けばいいんですね。わかりました。やれるだけやってみます」
「話は最後まで聞け!」
そう老爺がすごむ。
赤子の泣き声が夜風に乗って聞こえてきた。
「もし枕元に、私か同業者がいたら、そいつはもう助からない。私には手に負えませんと、素直に、引き下がるんだ。これだけは絶対に守りなさい。絶対に破ってはならない、不文律だからな。わかったな?」
「もしも約束を破ったら?」
「風邪を引くことになるだろう」
「え、それだけ?」
僕は肩透かしをくらったような声を上げた。
その程度の罰なら甘んじて受け入れよう。
「風邪は、万病のもと。それで、命を落とすこともある」
「……そうですか」
ふう、と溜め息を吐きながら、僕はこの会話を反芻してみた。怪しい。圧倒的に怪しい。実行するにせよ、しないにせよ、これだけは確認しておきたかった。
「おじいさんは何者ですか?」
「私は、死神だ」
一瞬の静寂が訪れる。パソコンの液晶画面がスリープモードに入り暗くなる。カーテンが街灯の明かりを完全に遮った。暗黒が支配する。まばたきをした刹那、不気味なポンチョ姿の老年男性は忽然と姿を消していた。
「え? おい、待て。本当にいなくなったのか?」
僕はあわてて電気をつける。急に部屋を明るくしたせいで目が痛い。ゆっくりと視界が開けてくるが、そこには誰の気配もない。
顔面をなでられたような感じがして、こめかみを触ってみると、じっとりとした脂汗が伝っているだけだった。
パソコンの画面を表示する。
そこにはまだ「安楽死」の文字があった。
タブを閉じたつもりだったが、どうやら消せていなかったようだ。
テケレッツのパ。
これだけで病気が治せる。
医者の真似事ができて、大金が手に入る。
僕は気でも触れてしまったのだろうか。
それとも現実なのだろうか。
思案に耽っていると、スマートフォンが振動し始めた。こんな夜更けに誰だろうと電話に出ると「入院中のおばあちゃんがもう長くないみたいだから、あんたも顔を見に来なさい」と母親からの感情を押し殺した声が聞こえてきた。




