泥だらけの約束
スクラップ工場の錆びたフェンス越しに、マリは絶叫した。
「哲郎さん!!」
重い鉄塊を背負い、泥濘に足を取られていた男が、弾かれたように顔を上げた。
煤と泥で誰だか判別できないほど汚れ、頬はこけ、かつての恰幅の良さは失われている。しかし、その真っ赤になった鼻と、溢れ出した涙だけが、間違いなく彼女の愛した「山本哲郎」であることを示していた。
「マリ……さん。どうして、こんなところに……」
哲郎は背負っていた鉄を地面に落とした。ズシン、という重い音が、彼の背負ってきた苦労の重さを物語る。彼は汚れた手で必死に自分の顔を拭おうとしたが、泥を広げるだけだった。
「来ちゃダメだ! 制服が汚れる。あんたは、これから空へ行くんだろ……っ」
マリは躊躇なく、ぬかるんだ地面に足を踏み入れた。一流のブランド靴が泥を噛み、紺色のタイトスカートが茶色く染まる。けれど、今の彼女にとって、そんなことは雲の上の出来事のようにどうでもよかった。
「空なんて、もうどうでもいい! あなたがいない地面なんて、私にはただの地獄よ!」
マリは、逃げようとする哲郎のボロボロの作業着を、背後から力いっぱい抱きしめた。
「マリさん、離してくれ……。僕はもう、工場も、プライドも、あんたに差し出せるものは何も持ってないんだ。ただの、鉄屑の運搬人なんだよ……」
「持ってないなんて言わないで! あなたは、私の心を叩き直した唯一の職人でしょ!?」
マリは、彼の背中に顔を押し当て、嗚咽を漏らした。
「あなたが、一生かけて私の負債を背負うって決めたなら……私は一生かけて、あなたのその背中を洗うわ。空を飛ぶのはもうやめた。私は、あなたと一緒に地面を這いつくばって、一緒に泥だらけになる!」
哲郎は、その場で崩れ落ちるように膝をついた。マリもそのまま、泥の中に膝をつく。
「……バカだよ。マリさんは、本当に、大バカだ……っ」
哲郎は、子供のように声を上げて泣いた。マリもまた、彼の汚れきった手に自分の手を重ね、共に泣いた。
やがて雨が降り始めた。
かつての雨は、二人を隔てる冷たい壁だった。しかし今の雨は、二人の汚れを等しく洗い流す、祝福の儀式のように感じられた。
哲郎は、震える手でポケットを探り、一編の小さな「鉄の輪」を取り出した。それは、仕事の合間にスクラップの端材を叩いて作った、歪で、装飾一つない指輪だった。
「……いつか、ちゃんとしたプラチナのを買おうと思ってた。でも、今の僕には、これしか打てなかった。ゴミみたいな、鉄の指輪です」
マリは、その不格好な輪を奪い取るようにして、自分の薬指にはめた。
「……重いわ。どんな宝石よりも、ずっと。……でも、絶対に外さない」
マリは、泥だらけの顔で笑った。その笑顔は、かつてのどのキャビンアテンダントとしての微笑みよりも、神々しく、そして美しかった。
「哲郎さん。約束して。もう二度と、一人で勝手に消えないって」
「はい。……約束します。死ぬまで、マリさんの心のネジは、僕が締めておきますから」
海沿いのスクラップ工場。
泥と錆にまみれた二人は、世界で一番不釣り合いで、そして世界で一番固い約束を交わした。
空を捨て、地面を選んだ女神。そして、すべてを失って愛だけを残した三流の職人。
二人の本当の戦いは、ここから始まる。




