消えた哲郎
工場の入り口に貼られた、無機質な赤い紙。それが、哲郎の二十年の月日を沈黙させた。
機械の唸りも、火花の爆ぜる音も消えた工場は、まるで魂を抜かれた死体のように冷え切っていた。
「……ごめん。マリさん。守りきれなかった」
哲郎は、がらんとした作業場の中央で、ぽつりと呟いた。初めて呼んだ、彼女の名前。それは、恋人のように甘く響くものではなく、自責の念に押し潰されそうな男の、最後の手向けのように聞こえた。
マリは、彼の震える肩を抱きしめたかった。けれど、その前に哲郎は、自分を突き放すように一歩下がった。
「僕といると、あんたの翼はどんどん泥で重くなる。……もう、行ってください。空へ戻るんです。あんたは、そっち側の人間だ」
「何を言ってるの、山本さん……」
「山本じゃない! 哲郎って呼べよ!」
彼は叫んだ。その顔は、いつもの泣きべそではなく、剥き出しの絶望に歪んでいた。
「三流の男が、一流の女を幸せにできるなんて、思い上がってた。僕には、もう叩く鉄も、燃やす火もない。……さよならだ、マリさん」
それが、その夜にマリが聞いた、彼の最後の言葉になった。
翌朝、マリが工場を訪れた時、そこに哲郎の姿はなかった。
使い古された軍手と、あの日マリが返したタッパーだけが、冷たくなった作業台の上にポツンと残されていた。
哲郎は、マリにこれ以上の負い目を感じさせないため、そして彼女の負債を整理する資金を作るために、自分の全てを投げ出して姿を消したのだ。
一週間後。
マリのもとに、弁護士を通じて一通の書類が届いた。
父の借金が、法的に処理され、完済の目処が立ったという通知。そこには、哲郎が工場の敷地を売却し、さらには「生命保険」の解約返戻金まで充当した形跡があった。
「……どうして。どうしてそこまでバカなのよ、哲郎さん!」
マリは、誰もいないアパートで声を上げて泣いた。
彼女を空へ戻すために、彼は自分の地面さえも手放してしまった。
マリは狂ったように彼を探した。彼が勤めていたはずの取引先、行きつけの居酒屋、バッティングセンター。けれど、どこにも「鼻を赤くして泣く男」の姿はない。
ある日、マリは謹慎が解け、再び制服に袖を通した。
鏡に映る自分は、かつてのように完璧に見える。けれど、その胸のうちは、火の消えた工場のようにもぬけの殻だった。
空港へ向かうモノレールの車窓から、ふと下町の景色が流れる。
その時、マリの目に、遠く離れた海岸沿いの「スクラップ工場」で、重い鉄屑を背負って運ぶ一人の男の姿が飛び込んできた。
ボロボロの黄色いレインコート。
泥にまみれ、何度も足をもつれさせながら、それでも必死に重荷を運ぶ、あの広い背中。
「……あ」
声にならない叫びが漏れる。
マリは、次の駅で、走り出すモノレールから飛び降りるようにしてホームへ駆け出した。
ヒールが折れても構わない。制服が汚れても構わない。
今、あの背中を追いかけなければ、自分の人生は、どんなに高く飛んだとしても、一生冷え切ったままだと分かっていた。
「哲郎さん!!」
潮風と鉄の錆びた匂いが混ざる海岸線。
マリの声が、波音を切り裂いた。




