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『泥だらけのダイヤモンド』  作者: 智利


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翼を奪われた女神


 謹慎期間中、マリは慣れない事務作業のアルバイトを始めた。

 指先は書類で切れ、三万フィートの空で見せていたあの華やかな所作は、今や見る影もない。しかし、アパートに帰れば、哲郎から届く「今日は新しい焼き入れを覚えました」という報告や、不格好な手料理の差し入れがある。

 

 「私、これでいいのかもしれない」

 

 身の丈に合った幸せ。地面に足をつけて歩く実感。マリがそう思い始めた矢先、運命は冷酷な音を立てて崩れ去った。

 ある日の午後、マリがバイトを終えて外に出ると、黒塗りの車が彼女を待ち構えていた。後部座席から降りてきたのは、父の債権を引き継いだという、冷徹な目をした男だった。

 「鈴川さん、お父上の負債の件ですが……どうやら、最近仲良くされている方がいるようですね。下町の小さな鉄工所の主とか」

 マリの心臓が凍りついた。

 「……山本さんは関係ないわ。彼を巻き込まないで」

 「関係なくはない。彼はあなたを助けるために、自分の工場を担保に融資を受けようとしている。……三流の職人が一生をかけて守ってきた火を、あなたの借金という雨で消そうとしているんですよ」

 マリは、その場に崩れ落ちそうになった。

 自分の不始末が、哲郎の誇りである工場を、彼の人生そのものである「鉄」を奪おうとしている。

 その夜、マリは必死に自転車を漕いで『山本鉄工所』へ向かった。

 工場の中では、哲郎が一人、いつものようにハンマーを振るっていた。しかし、その動きには、以前のような迷いのない力強さが欠けていた。

 「山本さん!」

 マリの声に、哲郎はびくりと肩を揺らした。振り向いた彼の顔は、過労と心労で見る影もなくやつれていた。

 「鈴川さん、どうしたんですか、こんな時間に。危ないですよ」

 「どうして言わなかったの!? 工場を担保にするなんて……。ここがなくなったら、あなたの人生はどうなるのよ!」

 哲郎は、一瞬たじろいだが、すぐに力なく笑った。

 「……バレちゃいましたか。三流の隠し事は、すぐバレるな」

 「笑い事じゃないわ! 私、あなたの人生を壊したくない! もう関わらないで。お願いだから、私の前から消えて!」

 マリの叫びが、鉄の匂いが充満する工場に響き渡った。

 哲郎はハンマーを置き、真っ赤になった目でマリを真っ直ぐに見つめた。

 「鈴川さん。僕はね、鉄を叩くのが好きです。でも、あなたが泣いているのを知っていて、知らん顔して鉄を叩くほど、僕は立派な職人じゃない」

 

 哲郎はゆっくりと歩み寄り、汚れた手で、自分の胸を叩いた。

 「工場なんて、また建て直せます。機械だって、また買えばいい。でも……あなたの翼が折れたままなのは、耐えられない。僕はあんたを空に戻す。そのためなら、僕の工場くらい、火の中に投げ込んだって惜しくない!」

 「……バカよ。本当に、バカな人」

 マリの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 「なんでそこまでしてくれるの? 私、あなたに何も返せないのに」

 「返さなくていい。三流の男が、一生に一度、最高の素材に出会えた。……あんたという最高の鋼を、ピカピカに磨き上げる。それが僕の、最初で最後のワガママなんです」

 哲郎はそう言って、また鼻を真っ赤にして大号泣し始めた。

 差し出された彼の背中。かつて雨の夜に背負ってくれた、あの広くて温かい背中が、今はマリを絶望から守る唯一の壁だった。

 しかし、非情な現実は、さらなる追い打ちを用意していた。

 工場の外には、すでに差し押さえの「赤い紙」を持った男たちの影が近づいていた。

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