壊れたヒールと背中の温もり
不幸というものは、ドミノ倒しのように連鎖する。
父の負債整理は難航し、マリの給与の大部分は返済に消えた。かつて港区の夜景を眺めながら暮らしていた高級マンションを引き払い、今は場末の古いアパートへと引っ越しの準備をしていた。
さらに追い打ちをかけるように、職場での謹慎処分が下った。後輩が犯した重大な接客ミスを、その場の責任者だったマリがすべて被る形となったのだ。
「鈴川さん、しばらく頭を冷やしてきなさい。君の『一流のプライド』が、周りを見えなくさせていたんじゃないのかね」
上司の冷淡な言葉が、刃のように胸を刺す。
土砂降りの夜だった。
マリは、最後に残った僅かな荷物が入った重い袋を抱え、新しいアパートへ向かって歩いていた。雨を避ける余裕も、タクシーを呼ぶ金もなかった。
その時、アスファルトの隙間に、マリが大切に履き続けてきた一流ブランドのヒールが挟まった。
「……あ」
鈍い音とともに、細いヒールが無残に折れた。
バランスを崩して泥水の中に倒れ込むマリ。抱えていた袋が破れ、中から安物のレトルト食品や、あの時哲郎に返せなかったタッパーが転がり出した。
「……なんで。なんで私、こんなところにいるの……」
雨に打たれ、泥にまみれ、マリは地面に這いつくばったまま動けなくなった。空を飛んでいた自分は、もうどこにもいない。自分はただの、足の折れた惨めな女だ。
視界が涙でぼやけ、雨音だけが耳を塞ぐ。その時、頭上の雨が止まった。
「鈴川さん」
聞き慣れた、少し上擦った声。見上げると、そこにはいつもの黄色いレインコートを着た哲郎が立っていた。彼は、折れたヒールと、泥だらけのマリを見て、一瞬だけ言葉を失った。
「山本さん……見ないで。お願いだから、今の私を見ないで」
マリは顔を覆った。しかし、哲郎は黙って膝をつき、自分の上着を脱いでマリの肩にかけた。
「……寒かったでしょう。ごめんなさい、僕がもっと早く来ていれば」
「あなたのせいじゃないわよ! 私が、私が三流だから……。プライドばっかり高くて、中身なんて何もなかったから……!」
哲郎は何も言わなかった。ただ、マリが地面に散らした荷物を一つ一つ丁寧に拾い上げ、壊れた靴を自分のポケットにねじ込んだ。
そして、マリの前に背中を向けた。
「乗ってください」
「え……?」
「僕の背中、鉄を運んで鍛えてるから、結構頑丈なんです。鈴川さんを運ぶくらい、なんてことない」
マリは躊躇したが、哲郎は動かなかった。意を決してその背中にしがみつくと、分厚い筋肉の熱さが伝わってきた。油と、汗と、そして微かな安物の石鹸の匂い。
哲郎は、マリを背負って雨の夜道を歩き出した。
「……重いでしょ。私、可愛げもないし、荷物も多いし」
「重くないです。……僕が毎日叩いてる鉄の方が、よっぽど重い。それに……」
哲郎の声が、雨音の中で震えた。
「鈴川さんは、空を飛ぶ人です。地面が汚れているなら、僕が道になります。あなたがまた飛び立てるまで、僕が、ずっと背負っていきますから」
哲郎の背中を濡らしているのは、雨だけではなかった。彼は、マリを背負いながら、自分まで声を殺して泣いていた。
その涙は、同情ではない。マリの苦しみを、自分の骨が軋む痛みとして感じている、本物の共鳴だった。
マリは、彼の広い背中に顔を埋めた。
「……山本さん。あなた、本当にバカね。こんな女、放っておけばいいのに」
「バカで結構です。三流の職人は、一度決めた『素材』は一生手放さないんです」
折れたヒールよりも、失った地位よりも、この温かい背中の方が、今のマリには何倍も価値があるように思えた。
雨は降り続いていた。けれど、マリの心には、生まれて初めて、消えることのない「種火」が灯っていた。




