油の匂いのする休日
深夜のバッティングセンターは、埃っぽさと火照ったゴムの匂いがした。
「鈴川さん、腰が入ってません! もっとこう、地面を掴むように!」
哲郎の言葉に従い、マリはパンプスを脱ぎ捨てて素足でバッターボックスに立った。一流大学を出て、一流のサービスを叩き込まれてきた彼女が、今、裸足で泥臭いケージの中にいる。
時速100キロのマシンから放たれる白球を、マリは必死に追った。
「……当たらない! なんで当たらないのよ!」
「いいんです、空振りで! 悔しい分だけ、心の中の不純物が火花になって飛んでいきますから!」
哲郎はケージの外で、まるで自分のことのように拳を握りしめて叫んでいる。
やがて、マリのバットが快音を鳴らした。打球は高く上がり、ネットを叩く。
「やった……当たった! 当たったわ、山本さん!」
「すごいです、鈴川さん! 天才だ!」
哲郎は飛び跳ねて喜び、勢い余ってフェンスに頭をぶつけた。
「痛たた……」と鼻を赤くして蹲る彼を見て、マリは腹の底から笑った。こんなに声を出して笑ったのは、一体いつ以来だろうか。
「……ねえ、山本さん。今度の休み、あなたの仕事場をもっと詳しく見せてくれない?」
不意に口を突いて出た言葉に、哲郎は目を丸くした。
「えっ? 僕の工場なんて、油臭くて、鈴川さんの肌が荒れちゃいますよ」
「いいの。あなたが『本物』を作っている場所を、知りたいの」
数日後の日曜日。マリは、白のブラウスを避け、動きやすいデニム姿で『山本鉄工所』を訪れた。
休日の工場は静かだが、鉄の冷ややかな匂いが充満している。哲郎は、昨日までの「泣き虫の男」の影を消し、真剣な眼差しで作業台に向かっていた。
「これは、建築用の接合金具です。建物が建てば、誰の目にも触れない場所で、一生家を支え続ける。派手さはないけれど、これが腐れば家は倒れるんです」
哲郎が、磨き上げられた鉄の塊を見せる。
「僕ら三流ができるのは、誰にも気づかれないところで、絶対に折れない土台を作ることだけですから」
マリはその鉄に触れた。ひんやりとしているが、哲郎の魂が宿っているような、不思議な力強さを感じた。
その時、工場の入り口に影が差した。
「……マリ、こんなところにいたのか」
現れたのは、先日彼女を切り捨てたはずの高村だった。
「君の父親の借金、僕がなんとかしてあげてもいい。条件は、僕のセカンドとしての付き合いを認めることだ。君のような『一流の飾り』を、完全に失うのは惜しくなった」
高村の言葉は、この神聖な工場の空気を一瞬で汚した。マリの顔から血の気が引く。
しかし、その言葉を遮るように、一歩前へ出たのは哲郎だった。
「あんた……今、なんて言いました?」
哲郎の声は低く、そして静かに怒りに震えていた。
「鈴川さんは、飾りじゃない。あんたみたいな、中身がスカスカの奴に、安売りしていい人じゃないんだ」
「黙れよ、油臭い三流職人が。いくら稼いでる? 僕の一時間のコンサル料で、君の年収が買えるかもしれないんだぞ」
高村の嘲笑。哲郎は、一瞬だけ俯いた。しかし、次に顔を上げた時、その瞳には熱い涙が溜まっていた。
「……確かに、僕は三流です。あんたの言う通り、お金も地位もない。でもね、あんたが絶対に持っていないものを、僕は持ってる」
哲郎は、作業台の上にある一番重いハンマーを握りしめた。
「僕は、鈴川さんの『痛み』を叩き直せる。あんたみたいに利用するんじゃなく、一生かけて、彼女がまた空を飛べるように、この命を燃料にして火を焚き続けるんだ!」
「……チッ、話にならないな」
高村は吐き捨てるように去っていった。
静寂が戻った工場で、哲郎はまたボロボロと泣き始めた。
「……すみません、鈴川さん。僕、また偉そうなこと言っちゃって。怖かったですよね」
マリは、震える哲郎の背中に、そっと手を添えた。
「いいえ。……最高にかっこよかったわ」
油の匂い。鉄の匂い。そして、目の前の男の、ひたむきで暑苦しいまでの熱量。
マリは確信した。自分が求めていたのは、空の上で交わされるシャンパンではなく、この不器用な男が守ろうとしている「地面の上の温もり」なのだと。




