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『泥だらけのダイヤモンド』  作者: 智利


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4/15

一流の嘘、三流の本音


 雨の夜から、三日が過ぎた。

 マリのスマートフォンは、かつてないほど静かだった。一日に何度も届いていた、ピントのぼけた鉄や空の写真、そして「無理しないで」という無骨な言葉。それが途絶えただけで、三万フィートの上空は、以前よりもずっと寒く感じられた。

 そんな中、マリにさらなる追い打ちがかかる。

 かつて「将来を約束した」はずのエリート商社マン、高村から、一通の連絡があったのだ。

 『マリ、話がある。例の件だけど、やはり白紙に戻してほしい』

 高級レストランに呼び出されたマリを待っていたのは、謝罪ではなく、保身のための「一流の嘘」だった。

 「君の父親の借金の話、耳に入ったんだ。うちの家系には、そういう『ノイズ』は許されない。……君も分かってくれるだろ? 君だって、一流の生き方を望んでいるはずだ」

 ワイングラスに映る自分の顔は、惨めだった。

 「そうね。……分かってるわ」

 マリは背筋を伸ばし、完璧な微笑みを作って席を立った。一流であるために、彼女は泣くことさえ自分に禁じていた。

 レストランを出て、あてどなく歩く。気づけば、足は山手線の端、鉄の匂いが漂う下町の工場街に向かっていた。

 「山本さんの工場、この辺りのはず……」

 暗い路地の奥に、煌々と明かりが漏れる一軒の建物があった。『山本鉄工所』。

 中を覗くと、そこにはあの夜、雨の中で小さく見えた哲郎がいた。

 しかし、そこにいたのは「泣き虫の山本さん」ではなかった。

 火花が舞う中、彼は重いハンマーを狂いなく振り下ろしていた。真っ赤に焼けた鉄が、彼の打撃を受けるたびに形を変えていく。その表情は、近寄りがたいほどに険しく、神聖ですらあった。

 

 「……山本さん」

 

 マリの声は、機械音にかき消された。しかし、哲郎は本能で気づいたように動きを止めた。

 振り返った哲郎の顔は、煤と汗で汚れきっていたが、その瞳だけは澄んでいた。

 「鈴川さん……。どうして、ここに」

 

 哲郎は慌てて軍手を脱ぎ、汚れた手を背中に隠した。

 「汚いところです。中に入っちゃいけない」

 

 「……謝りに来たの。この間のこと」

 マリは唇を噛んだ。

 「バッグなんて、どうでもよかった。……あなたの豚汁、本当は、すごく温かかった」

 

 その言葉を聞いた瞬間、哲郎の厳しい「職人の顔」が崩れた。いつものように鼻を真っ赤にし、目から大粒の涙が溢れ出す。

 「……よかった。口に合わなかったかと思って、僕、三日間、鉄を叩きながらずっと泣いてたんです」

 

 「……本当に、あなたって人は」

 マリは苦笑した。そして、堰を切ったように、高村に言われたこと、父親の借金のこと、孤独に耐えてきたことを話し始めた。

 

 「私、もうダメかもしれない。一流のフリをするのも、空の上で笑うのも。本当の私は、借金まみれの、可愛げのない女なのよ」

 

 哲郎は、鼻をすすりながらマリを見つめた。そして、隠していた自分の大きな手を、ゆっくりと差し出した。

 

 「鈴川さん。三流の僕が言うのも生意気ですけど……一流の男っていうのは、綺麗なあんたしか愛さない奴のことですか? もしそうなら、そんなのは、中まで火が通ってないナマクラだ」

 

 哲郎は、煤で汚れた手で、マリの震える肩に触れようとして、寸前で止めた。

 「僕は、泥まみれのあんたがいい。地面を這いつくばって、それでも前を向こうとするあんたが、一番綺麗だと思う。……僕が打ってる鉄はね、叩かれれば叩かれるほど、不純物が抜けて、本物の鋼になるんです。あんたは今、本物になろうとしてるんですよ」

 

 マリは、我慢していた涙を、ようやく流すことができた。

 エリートたちの並べる美辞麗句よりも、この男の「三流の本音」が、彼女のボロボロになった自尊心を、力強く繋ぎ止めていく。

 

 「……山本さん。バッティングセンター、まだやってるかしら」

 「えっ? あ、はい! 24時間営業のところがすぐそこに!」

 

 「私を連れていって。……思い切り、空振りしたい気分なの」

 

 二人は、夜の町を走り出した。

 高級車ではなく、古い軽トラのエンジン音を響かせながら。

 一流の嘘を脱ぎ捨てたマリの隣で、哲郎は相変わらず鼻をすすりながら、一生懸命にハンドルを握っていた。

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