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『泥だらけのダイヤモンド』  作者: 智利


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3/15

深夜の雨とタッパーウェア


 「鈴川さん、これ。夜食に食べてください。工場の食堂のおばちゃんに教わって、僕が自分で作ったんです」

 数日後の深夜。フライト帰りのマリの前に現れた哲郎は、誇らしげに一つのタッパーウェアを差し出した。

 それは、どう見ても百円ショップで買ったであろう、使い古されて角が少し欠けたプラスチック容器だった。中には、茶色く煮込まれた「豚汁」がなみなみと入っている。

 「……山本さん、気持ちは嬉しいけど。私、こういうのはちょっと」

 マリは引きつった笑顔で断った。彼女の冷蔵庫には、オーガニックのサラダや、デパ地下で買った洗練された惣菜しか入っていない。油の浮いた、無骨な手料理。それは彼女が最も遠ざけてきた「生活の泥臭さ」そのものだった。

 しかし、哲郎は引かなかった。

 「いいから! 栄養ありますから! 鉄だって、炭素が混じらないと強くならないんです。人間も、こういう泥臭いもん食わないと、空の上じゃ戦えませんよ!」

 半ば強引にタッパーを押し付けられ、マリは仕方なくそれを持ち帰った。

 翌日。事件は職場で起きた。

 マリはブリーフィング(乗務前の打ち合わせ)のため、クルー専用の控室にいた。後輩たちが憧れの眼差しで彼女を見つめる中、マリがバッグから資料を取り出そうとした、その時だった。

 バッグの底で、あのタッパーの蓋が緩んでいた。

 「……あ」

 一瞬にして、洗練された控室に「実家の台所」のような、濃厚な味噌とゴボウの香りが立ち込めた。マリの高級なブランドバッグの裏地には、茶色い汁がじわりと染み込んでいる。

 「……鈴川先輩? 何ですか、この匂い」

 「まさか、豚汁……? 先輩が、そんなものを?」

 後輩たちのクスクス笑いが聞こえる。完璧な「空の女神」のイメージが、たった一杯の汁物で崩れていく。マリの顔は羞恥心で激しく火照った。

 あの男のせいだ。あの、三流の、空気の読めない男のせいで。

 その日の夜、マリは土砂降りの雨の中、駅前で自分を待っていた哲郎を見つけるなり、タッパーを突き出した。

 「もう、二度とこんなことしないで!」

 絶叫に近い声だった。哲郎は驚いて立ち尽くす。

 「あなたのせいで、恥をかいたわ! バッグは台無し、仕事仲間には笑われて……。あなたの『善意』は、私にはただの『迷惑』なの。住む世界が違うって、何度も言ったでしょう!?」

 雨音にかき消されそうな叫び。哲郎は、雨に濡れた顔で、じっとマリを見つめていた。彼の目には、怒りではなく、深い悲しみと……自分に対する不甲斐なさが浮かんでいた。

 「……すみません。僕は、ただ、鈴川さんが少しでも元気になるかと……。三流の僕には、ブランドバッグの価値なんて、分からなかった」

 哲郎は震える手でタッパーを受け取ると、深々と頭を下げた。

 「もう、しません。……汚してしまって、本当に、すみませんでした」

 彼はそのまま、雨の中に背を向けた。いつもなら「鈴川さん!」と明るく追いかけてくるはずの男が、肩を落とし、水たまりを跳ね飛ばしながら去っていく。

 その背中が、あまりにも小さく、壊れそうに見えて、マリの胸に鋭い痛みが走った。

 マンションに帰り、着替えた後。

 マリはキッチンに置かれたままの、中身が半分になったタッパーを見つめた。

 捨てようとして、手が止まる。

 一口だけ。毒味のつもりで、彼女は冷めた豚汁を口に運んだ。

 「…………あつい」

 冷めているはずなのに、なぜか熱かった。

 ゴロゴロと大きく切られた大根や人参。形は不格好だが、火が芯まで通るように、丁寧に、時間をかけて煮込まれているのが分かった。

 それは、彼の手のひらと同じ、不器用で、ひたむきな味だった。

 マリの目から、一粒の涙がポタポタと豚汁の中に落ちた。

 「……バカね、私。何をプライドなんて守ってるのよ」

 バッグよりも、キャリアよりも、ずっと大切なものを、自分は今、雨の中に捨ててしまったのではないか。

 マリはコートも着ずに、部屋を飛び出した。

次章へのヒント

自分から突き放しておきながら、哲郎の不在に耐えられなくなるマリ。

しかし、哲郎は傷つき、工場に閉じこもってしまいます。

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