深夜の雨とタッパーウェア
「鈴川さん、これ。夜食に食べてください。工場の食堂のおばちゃんに教わって、僕が自分で作ったんです」
数日後の深夜。フライト帰りのマリの前に現れた哲郎は、誇らしげに一つのタッパーウェアを差し出した。
それは、どう見ても百円ショップで買ったであろう、使い古されて角が少し欠けたプラスチック容器だった。中には、茶色く煮込まれた「豚汁」がなみなみと入っている。
「……山本さん、気持ちは嬉しいけど。私、こういうのはちょっと」
マリは引きつった笑顔で断った。彼女の冷蔵庫には、オーガニックのサラダや、デパ地下で買った洗練された惣菜しか入っていない。油の浮いた、無骨な手料理。それは彼女が最も遠ざけてきた「生活の泥臭さ」そのものだった。
しかし、哲郎は引かなかった。
「いいから! 栄養ありますから! 鉄だって、炭素が混じらないと強くならないんです。人間も、こういう泥臭いもん食わないと、空の上じゃ戦えませんよ!」
半ば強引にタッパーを押し付けられ、マリは仕方なくそれを持ち帰った。
翌日。事件は職場で起きた。
マリはブリーフィング(乗務前の打ち合わせ)のため、クルー専用の控室にいた。後輩たちが憧れの眼差しで彼女を見つめる中、マリがバッグから資料を取り出そうとした、その時だった。
バッグの底で、あのタッパーの蓋が緩んでいた。
「……あ」
一瞬にして、洗練された控室に「実家の台所」のような、濃厚な味噌とゴボウの香りが立ち込めた。マリの高級なブランドバッグの裏地には、茶色い汁がじわりと染み込んでいる。
「……鈴川先輩? 何ですか、この匂い」
「まさか、豚汁……? 先輩が、そんなものを?」
後輩たちのクスクス笑いが聞こえる。完璧な「空の女神」のイメージが、たった一杯の汁物で崩れていく。マリの顔は羞恥心で激しく火照った。
あの男のせいだ。あの、三流の、空気の読めない男のせいで。
その日の夜、マリは土砂降りの雨の中、駅前で自分を待っていた哲郎を見つけるなり、タッパーを突き出した。
「もう、二度とこんなことしないで!」
絶叫に近い声だった。哲郎は驚いて立ち尽くす。
「あなたのせいで、恥をかいたわ! バッグは台無し、仕事仲間には笑われて……。あなたの『善意』は、私にはただの『迷惑』なの。住む世界が違うって、何度も言ったでしょう!?」
雨音にかき消されそうな叫び。哲郎は、雨に濡れた顔で、じっとマリを見つめていた。彼の目には、怒りではなく、深い悲しみと……自分に対する不甲斐なさが浮かんでいた。
「……すみません。僕は、ただ、鈴川さんが少しでも元気になるかと……。三流の僕には、ブランドバッグの価値なんて、分からなかった」
哲郎は震える手でタッパーを受け取ると、深々と頭を下げた。
「もう、しません。……汚してしまって、本当に、すみませんでした」
彼はそのまま、雨の中に背を向けた。いつもなら「鈴川さん!」と明るく追いかけてくるはずの男が、肩を落とし、水たまりを跳ね飛ばしながら去っていく。
その背中が、あまりにも小さく、壊れそうに見えて、マリの胸に鋭い痛みが走った。
マンションに帰り、着替えた後。
マリはキッチンに置かれたままの、中身が半分になったタッパーを見つめた。
捨てようとして、手が止まる。
一口だけ。毒味のつもりで、彼女は冷めた豚汁を口に運んだ。
「…………あつい」
冷めているはずなのに、なぜか熱かった。
ゴロゴロと大きく切られた大根や人参。形は不格好だが、火が芯まで通るように、丁寧に、時間をかけて煮込まれているのが分かった。
それは、彼の手のひらと同じ、不器用で、ひたむきな味だった。
マリの目から、一粒の涙がポタポタと豚汁の中に落ちた。
「……バカね、私。何をプライドなんて守ってるのよ」
バッグよりも、キャリアよりも、ずっと大切なものを、自分は今、雨の中に捨ててしまったのではないか。
マリはコートも着ずに、部屋を飛び出した。
次章へのヒント
自分から突き放しておきながら、哲郎の不在に耐えられなくなるマリ。
しかし、哲郎は傷つき、工場に閉じこもってしまいます。




