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『泥だらけのダイヤモンド』  作者: 智利


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高度三万フィートの孤独


 「コーヒー、お召し上がりになりますか?」

 

 三万フィートの上空。鈴川マリは、一ミリの狂いもない微笑みを乗客に向けていた。

 ファーストクラスのキャビンには、静寂と高級な柔軟剤の香りが漂っている。ここにいるのは、成功という名の切符を手に入れた者たちばかりだ。かつての彼女にとって、この場所こそが自分の居場所であり、誇りだった。

 しかし、今はどうだ。深夜便の長いフライトの最中、ギャレー(厨房)の隅で一人息をつく時、不意にあの「泣き虫の男」の言葉が蘇る。

 

 ——『あんたは、今にもパリンと割れそうだ』

 

 「……余計なお世話よ、三流のくせに」

 

 独り言ちて、マリはポケットの中のスマートフォンを滑らせた。そこには、あの夜、半ば強引に交換させられた哲郎からのメッセージが届いていた。

 

 『鈴川さん。今日は朝から雨ですが、鉄を打つ火の粉はいつもより綺麗に見えます。空の上は晴れていますか。お腹が空いたら、温かいものを食べてください。山本哲郎』

 

 添付されているのは、真っ赤に焼けた鉄の棒を、不格好な作業着姿で叩いている自撮り写真だ。構図もピントもめちゃくちゃで、背景には乱雑な工具が散らばっている。

 マリは溜息をついた。自分たちが住む世界は、あまりにも違う。彼女が扱うのは、磨き上げられた銀食器や、芳醇なヴィンテージワインだ。対して彼は、すすと油にまみれ、火花を浴びている。

 

 フライトを終え、成田空港に降り立ったのは、翌日の深夜だった。

 重いキャリーケースを引き、冷たい雨の降る到着ロビーを歩く。疲労は限界を超え、思考は灰色に染まっていた。タクシー乗り場へ向かおうとしたその時、自動ドアの向こう側に、場違いな人影を見つけた。

 

 黄色いレインコートを着て、大きなビニール傘を差した男。山本哲郎だ。

 

 「……なんで、ここにいるの?」

 

 マリの問いに、哲郎は寒さに震えながら、真っ赤な鼻をすすって笑った。

 「鈴川さん、おかえりなさい。深夜便だって言ってたから、足がないと思って。僕の軽トラ、ヒーターの効きが悪いんですけど、座布団は新しいのを敷いてきました」

 

 「……わざわざ千葉まで来たの? あなた、明日は仕事でしょ」

 

 「鉄を打つのは朝六時からです。でも、あなたが地面に降りてきたとき、誰もいないのは、なんだか……鉄が冷めるみたいで寂しいじゃないですか」

 

 哲郎はそう言って、マリの手から重いキャリーケースをひょいと取り上げた。その腕には、日々重いハンマーを振り下ろしている者特有の、硬く、太い筋肉が浮き出ている。

 

 「山本さん、私、言ったはずよ。私たちは住む世界が違うって。私のマンションの前に、そんなボロい軽トラを停められたら困るの」

 

 「分かってます。だから、一本裏の道に停めてあります。そこからなら、歩いてすぐですから」

 

 哲郎はマリの拒絶を、まるで雨を弾くカッパのように受け流した。彼は、彼女のプライドを傷つけない絶妙な距離感を、本能で測っているようだった。

 

 軽トラの助手席は、確かに狭く、エンジンの振動がダイレクトに体に響いた。しかし、哲郎が「これ、火傷しないように気をつけてください」と手渡した缶コーヒーは、高度三万フィートで提供されるどの高級銘柄よりも、マリの凍えた指先を熱くした。

 

 「……山本さん」

 「はい」

 「私、仕事でミスをしたの。今日。……多分、査定に響くわ」

 

 マリは、自分でも驚くほど素直に、弱音を吐いていた。

 哲郎はハンドルを握ったまま、しばらく沈黙した。そして、赤信号で車が止まったとき、彼は隣を見ずにこう言った。

 

 「鉄だって、一度で形が決まるわけじゃないんです。何度も叩いて、何度も火に入れて、そうやって強くなる。鈴川さんが今日叩かれたのは、もっと強くなるための『火入れ』ですよ」

 

 その言葉に、マリの視界が滲んだ。

 完璧でなければならない。一流でなければならない。そう自分を縛り付けてきた鎖が、この男の無骨な言葉によって、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

 

 「……泣かないでくださいよ、鈴川さん。僕までまた泣いちゃうじゃないですか」

 

 哲郎の声が、すでに震えている。マリは思わず吹き出した。

 「……あなた、本当に涙もろいわね。三流なのは、その我慢のなさよ」

 

 「へへ、面目ないです」

 

 雨の夜道、軽トラのエンジン音だけが響く。

 マリは窓の外を流れる景色を見ながら、心の中で呟いた。

 ——この男は、毒にも薬にもならない。ただ、ひどく熱いだけの鉄屑だ。

 

 だが、その熱が、彼女の冷え切った日常を少しずつ溶かし始めていることに、マリはまだ気づかない振りをしていた。

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