表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『泥だらけのダイヤモンド』  作者: 智利


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/15

第1巻 第一章:場違いな鉄屑(くず)

鉄を打つ音、心を打つ涙

私たちはいつから、自分の人生に「等級」をつけるようになってしまったのでしょうか。

年収、学歴、肩書き。それらの物差しで測れば、この物語の主人公・山本哲郎は間違いなく「三流」の男です。

しかし、彼は知っています。どんなに華やかな空飛ぶ翼も、最後には冷たい地面に降り立たなければならないことを。そして、その地面で誰よりも熱く、泥臭く、愛する人を支え続けることが、どれほど気高く、難しいことであるかを。

これは、空を飛ぶことに疲れ果てた「一流」の女性と、地面を這いつくばってでも愛を貫こうとした「三流」の職人の、魂の精錬記録です。冷え切った心をもう一度熱くしたいすべての人へ、この物語を捧げます。

成田行きのスカイライナーの窓に映る自分の顔を、鈴川マリは嫌悪感とともに見つめていた。

 一流私大を首席クラスで卒業し、誰もが羨む大手航空会社の国際線クルーとして空を飛んで七年。彼女の人生は、常に完璧な設計図の上にあった。しかし、その設計図には「28歳の焦燥」も「偽りの笑顔」も描かれてはいなかった。

 今日の彼女は、欠席した先輩の「代打」として、都内高級ホテルの婚活パーティーという名の品評会に駆り出されていた。

 会場の「エメラルド・ルーム」は、金と野心、そして隠しきれない虚栄心の匂いに満ちていた。

 一方、山本哲郎(40)は、借り物の窮屈なスーツの襟を何度も直していた。首筋には、長年プレス機の熱に晒されてきた職人特有の、深く刻まれた日焼けの跡がある。

 「哲郎、頼む。まともな女の連絡先を一つでいいから、俺の名刺で取ってきてくれ……」

 ぎっくり腰で悶絶する親友に泣きつかれ、場違いな戦場に放り出された男は、手持ち無沙汰にビュッフェの隅にある唐揚げを口に運んだ。

「その唐揚げ、衣が厚すぎて脂っこいですよ。機内食のサイドメニューでも、もっとマシなものが出ます」

 冷ややかな、しかし凛とした声が届いた。

 振り返ると、そこには発光しているのではないかと思えるほど眩しい女性が立っていた。鈴川マリ。泥臭い工場しか知らない哲郎の目には、彼女は実在する人間というより、硝子細工の彫像のように見えた。

「あ……いや、僕みたいな三流には、このくらいの下品な味の方が、胃に馴染むんです」

 哲郎は照れ隠しにヘラヘラと笑った。しかし、マリの視線は容赦ない。彼女は、目の前の男の「市場価値」を瞬時に査定していた。安物のスーツ、爪の間に薄く残る黒い油、そして洗練とは程遠い語彙。

「三流? 謙遜は美徳かもしれませんが、ここは価値を競う場所です。自分を安売りする男に、投資する女性はいません。……時間の無駄でしたね。失礼」

 彼女が背を向けようとしたその時、哲郎の大きな手が、反射的に彼女の行く手を遮った。触れはしなかった。自分の指が鉄粉で汚れていることを、彼自身が誰よりも自覚していたからだ。

「待ってください! 僕、確かに三流です。大学も名前を書けば入れるようなところを、奨学金返しながら五年かけてやっと卒業しました。今は、一日中、鉄を叩いてる。でも……」

 哲郎の言葉が熱を帯びる。

「僕の打つ鉄は、絶対に折れない。……あなたは、今にも折れそうな顔をしてる」

 マリは足を止めた。完璧なメイクの下に隠していた、深夜便のフライトで削り取られた孤独を見透かされたようで、胸の奥がチリついた。

「……何を知ったようなことを。鉄がどうしたって言うの?」

「鉄は、熱いうちなら形を変えられる。でも、一度冷えて固まったら、二度と曲がらないんです。今のあんたは、冷え切って、今にもパリンと割れそうだ。……笑ってくださいよ。あんたみたいな綺麗な人がそんな顔してると、僕、なんだか……」

 哲郎の大きな鼻が急に真っ赤になり、目から大粒の涙が溢れ出した。四十歳の男が、パーティー会場の隅で、唐揚げを握りしめたまま号泣し始めたのだ。

「ちょっと! なんであなたが泣くのよ! 恥ずかしいじゃない!」

「だって……あんたが、あんまり綺麗で、あんまり寂しそうだから……! 僕みたいなバカでも、それくらいは分かるんです!」

 周囲の視線が突き刺さる。マリは顔を真っ赤にして、哲郎の袖を引いて会場外のテラスへ連れ出した。夜風が火照った顔を撫でる。

「……変な人。本気で泣くなんて、計算だとしたら最低よ」

「計算なんてできる頭、持ってませんよ。僕は、ただ……」

 哲郎は、作業着のポケットから無意識に持ってきた、使い古された軍手で涙を拭いた。

「鈴川さん。僕は、あなたを空から降ろしたい。地面の上で、泥にまみれても、笑っていられる場所に連れていきたいんだ」

「……プロポーズ? 5分前に会ったばかりの私に?」

「いいえ。これは、僕の人生で一番重い『仕事』の依頼です。僕に、あなたの心を叩かせてくれませんか。冷え切った心を、もう一度熱くさせてくれませんか」

 マリは呆れたように天を仰いだ。一流の男たちが並べる甘い言葉よりも、この男の支離滅裂な「鉄の話」の方が、なぜか冷え切った胸の奥に、じんわりと消えない熱を帯びさせていく。

「山本さん。私、高いわよ。メンテナンスも大変だし、何より、可愛くないわよ」

「知ってます。だから、三流の僕が、一生かけて一流の職人になるんです。あなた専用のね」

 哲郎は満面の笑みを見せた。その笑顔は、どんな高級シャンパンの泡よりも不格好で、そして暴力的なほどに温かかった。

 マリはまだ知らない。この「場違いな鉄屑」が、彼女の完璧な設計図を、跡形もなく書き換えていくことになるのを。

泥の中でしか見えない光

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

武田鉄矢さんが演じたあの不器用な男の背中や、松嶋菜々子さんが見せた凛とした美しさ。かつて私たちがテレビの前で胸を熱くした「愚直なまでの純愛」を、今の時代にもう一度呼び戻したい。そんな思いで筆を執りました。

今の世の中は、効率やコスパばかりが重視され、遠回りすることや泥にまみれることが避けられる傾向にあります。しかし、鉄が何度も火に入れられ、激しく叩かれることで強くなるように、私たちの人生もまた、傷つき、涙を流すことでしか得られない「本物の強さ」があるのだと信じています。

山本哲郎という男は、私の理想のヒーローです。泣き虫で、かっこ悪くて、でも愛する人のためなら自分の火を何度でも焚きつける。そんな「三流」の誇りを持つ人が、この世界のどこかで誰かの心を支えている。そう思うだけで、少しだけ地面が温かく感じられる気がします。

皆さんの心の中にある「ネジ」が、この物語を通して、ほんの少しだけ温かく締め直されたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。

また次の物語でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ