偽りの自立
「愛があれば、泥水も甘い」……そんな言葉は、一流の詩人が書いた空言に過ぎなかった。
再会した二人の生活は、四畳半の安アパートから始まった。マリはフライトの仕事を辞め、昼はコールセンター、夜は小さな食堂の皿洗いで食い繋いだ。かつての華やかな制服はクローゼットの奥で埃を被り、代わりに彼女の指先は、洗剤による手荒れで赤くひび割れていった。
哲郎は、昼は解体現場、夜は深夜の道路工事と、文字通り死に物狂いで働いていた。しかし、かつての「職人」としての誇りを奪われた彼の瞳からは、徐々に火の粉が消えていくのを、マリは隣で感じていた。
そんなある日、マリに一通の連絡が入る。
「マリ、君の復帰を望む声が多いんだ。もう一度、空へ戻らないか?」
かつての航空会社の重役からだった。提示された条件は破格。さらに、海外拠点への異動。それは、今の貧困から一気に抜け出し、再び「一流」の世界へ返り咲く切符だった。
「……私には、もう必要ない場所です」
そう断りかけたマリの目に、疲れ果てて床に転がるように眠る哲郎の姿が映った。
彼の耳の後ろには、解体現場で浴びたであろう火花の火傷跡がある。自分のために、彼は「鉄を叩く職人」という魂を捨て、ただの「肉体労働者」に成り下がってしまったのではないか。
(私がここにいることが、この人を壊しているの……?)
マリの心に、毒のような疑念が広がる。
「自分だけが空へ戻れば、この人は自由になれる。また自分の工場を持つ夢を見られるんじゃないか」
それは、愛ゆえの「偽りの自立」だった。
その夜、マリは哲郎に嘘をついた。
「哲郎さん、私……やっぱり空に戻りたいの。あなたとの生活は、私には重すぎたわ」
食卓に置かれたのは、スーパーの半額の惣菜。哲郎は箸を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……そう、ですか。やっぱり、マリさんには、泥は似合わないもんな」
哲郎は笑おうとしたが、その鼻が、嘘をつけない子供のように真っ赤になった。
「もう、追いかけてこないで。連絡もしないわ。さよなら、哲郎さん」
マリは荷物をまとめ、アパートを飛び出した。哲郎が追いかけてこないことを祈りながら。
しかし、哲郎は追いかけなかった。
彼はただ、マリがはめていった「鉄の指輪」がテーブルに残されているのを見つめ、声を出さずに泣いた。
彼女を自由にするために、彼はあえて「追わない」という地獄を選んだのだ。
一週間後。
マリは成田空港のロビーに立っていた。
新しい制服に身を包み、完璧なメイクを施す。周囲の視線は、再び「空の女神」の帰還を歓迎していた。
しかし、ゲートに向かおうとした彼女の足を止めたのは、空港のテレビから流れるニュース映像だった。
『下町の解体現場で、クレーンの転倒事故が発生。下敷きになった同僚を助けようとした男性一人が負傷し……』
映し出されたのは、救急車に運び込まれる、あのボロボロの黄色いレインコートを握りしめた男の手だった。
その手には、泥にまみれながらも、大切に握りしめられた「何か」が見えた。
「……嘘」
マリの完璧な仮面が、音を立てて砕け散った。




