表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『泥だらけのダイヤモンド』  作者: 智利


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/15

100回目の「いってらっしゃい」


 病院の白い天井を見つめ、哲郎は動かない右手を、まるで他人の肉塊であるかのように眺めていた。

 神経の損傷。職人として、ハンマーを振るうことはもう二度とできないかもしれない――医者の宣告は、彼から最後の生きる糧を奪い去った。

 「哲郎さん……」

 病室のドアを開けたのは、制服姿のマリだった。空港からそのまま駆けつけた彼女の姿は、この消毒液の匂いが漂う絶望の部屋には、あまりにも眩しすぎた。

 「……来ないでくれって、言っただろ」

 哲郎の声は、乾いた砂のように掠れていた。

 「見ての通りだ。僕はもう、鉄を打つどころか、あんたの荷物一つ持ってやれない。ただの、本物の鉄屑になったんだ」

 哲郎は、左手で枕元の「あるもの」を隠そうとした。それは、事故の瞬間に彼が握りしめていたもの。マリがテーブルに残していった、あの歪な鉄の指輪だった。

 

 「嘘をつかないで。これを守ろうとして、怪我をしたんでしょ?」

 マリは歩み寄り、無理やり彼の左手をこじ開けた。そこには、掌に食い込むほど強く握られていた指輪があった。

 「返せよ! こんなゴミ、もう何の意味もないんだ!」

 

 「ゴミじゃない! 鉄は、何度だって溶かして作り直せるって言ったのは、あなたじゃない!」

 マリの叫びが病室に響く。

 「右手が動かないなら、私があなたの右手になる。あなたが火を焚けないなら、私がふいごを吹くわ。……哲郎さん、お願い。私をもう一度、一人にしないで」

 哲郎は、初めてマリを睨みつけた。

 「マリさん。あんた、僕を憐れんでるのか? 三流の同情か? あんたには空があるだろ。世界中どこへだって行ける翼があるだろ!」

 マリは、静かに自分の制服のスカーフを解いた。

 「……翼なんて、あの夜、あなたの背中に乗った時に捨てたわ」

 彼女は、バッグから一通の封筒を取り出し、哲郎の胸に叩きつけた。

 「これ、辞表よ。さっき出してきた。もう後戻りはできない。私は、あなたという地面に、一生根を張るって決めたの」

 哲郎は、絶句した。

 「……バカだ。あんたは、本当に……手のつけられない大バカだ……っ」

 

 「ええ、大バカよ。三流の男に惚れ抜いた、救いようのない三流の女よ。……だから、哲郎さん。私を、もう一度空へ飛ばせて」

 

 マリは、哲郎の動かない右手を両手で包み込み、自分の頬に当てた。

 「空港へ戻るんじゃない。あなたが作った、あなただけの場所から、私を送り出して。私は、あなたの『いってらっしゃい』が聞きたいだけなの」

 哲郎の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 不自由な右手。失った工場。けれど、目の前の女性だけは、どんな嵐の中でも、泥沼の中でも、自分を「一流の職人」として見つめ続けてくれている。

 

 「……マリさん。僕は、まだ、火を消していい人間じゃないんだな」

 

 「当たり前よ。私の心のネジ、まだ半分しか締まってないんだから」

 

 二人は、病院のベッドの上で、声を上げて泣いた。

 それは、過去の決別でも、今の悲しみでもない。

 再び二人で、ゼロから鉄を叩き始めるための、「産声」のような涙だった。

 

 「……よし。……よし、マリさん。……行ってこい」

 

 哲郎は、震える左手でマリの背中を押し、人生で100回目となる、しかし最も重みのある「いってらっしゃい」を告げた。

 

 マリは、涙を拭いて立ち上がった。

 「……はい。行ってきます、哲郎さん。……必ず、あなたの元に帰ってくるわ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ