100回目の「いってらっしゃい」
病院の白い天井を見つめ、哲郎は動かない右手を、まるで他人の肉塊であるかのように眺めていた。
神経の損傷。職人として、ハンマーを振るうことはもう二度とできないかもしれない――医者の宣告は、彼から最後の生きる糧を奪い去った。
「哲郎さん……」
病室のドアを開けたのは、制服姿のマリだった。空港からそのまま駆けつけた彼女の姿は、この消毒液の匂いが漂う絶望の部屋には、あまりにも眩しすぎた。
「……来ないでくれって、言っただろ」
哲郎の声は、乾いた砂のように掠れていた。
「見ての通りだ。僕はもう、鉄を打つどころか、あんたの荷物一つ持ってやれない。ただの、本物の鉄屑になったんだ」
哲郎は、左手で枕元の「あるもの」を隠そうとした。それは、事故の瞬間に彼が握りしめていたもの。マリがテーブルに残していった、あの歪な鉄の指輪だった。
「嘘をつかないで。これを守ろうとして、怪我をしたんでしょ?」
マリは歩み寄り、無理やり彼の左手をこじ開けた。そこには、掌に食い込むほど強く握られていた指輪があった。
「返せよ! こんなゴミ、もう何の意味もないんだ!」
「ゴミじゃない! 鉄は、何度だって溶かして作り直せるって言ったのは、あなたじゃない!」
マリの叫びが病室に響く。
「右手が動かないなら、私があなたの右手になる。あなたが火を焚けないなら、私が鞴を吹くわ。……哲郎さん、お願い。私をもう一度、一人にしないで」
哲郎は、初めてマリを睨みつけた。
「マリさん。あんた、僕を憐れんでるのか? 三流の同情か? あんたには空があるだろ。世界中どこへだって行ける翼があるだろ!」
マリは、静かに自分の制服のスカーフを解いた。
「……翼なんて、あの夜、あなたの背中に乗った時に捨てたわ」
彼女は、バッグから一通の封筒を取り出し、哲郎の胸に叩きつけた。
「これ、辞表よ。さっき出してきた。もう後戻りはできない。私は、あなたという地面に、一生根を張るって決めたの」
哲郎は、絶句した。
「……バカだ。あんたは、本当に……手のつけられない大バカだ……っ」
「ええ、大バカよ。三流の男に惚れ抜いた、救いようのない三流の女よ。……だから、哲郎さん。私を、もう一度空へ飛ばせて」
マリは、哲郎の動かない右手を両手で包み込み、自分の頬に当てた。
「空港へ戻るんじゃない。あなたが作った、あなただけの場所から、私を送り出して。私は、あなたの『いってらっしゃい』が聞きたいだけなの」
哲郎の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
不自由な右手。失った工場。けれど、目の前の女性だけは、どんな嵐の中でも、泥沼の中でも、自分を「一流の職人」として見つめ続けてくれている。
「……マリさん。僕は、まだ、火を消していい人間じゃないんだな」
「当たり前よ。私の心のネジ、まだ半分しか締まってないんだから」
二人は、病院のベッドの上で、声を上げて泣いた。
それは、過去の決別でも、今の悲しみでもない。
再び二人で、ゼロから鉄を叩き始めるための、「産声」のような涙だった。
「……よし。……よし、マリさん。……行ってこい」
哲郎は、震える左手でマリの背中を押し、人生で100回目となる、しかし最も重みのある「いってらっしゃい」を告げた。
マリは、涙を拭いて立ち上がった。
「……はい。行ってきます、哲郎さん。……必ず、あなたの元に帰ってくるわ」




