鋼の指輪
コンペの勝利は、二人の生活を劇的に変えた。哲郎の設計したパーツは「心を支える職人技」として業界で話題となり、小さなアパートには注文が相次いだ。マリにも、航空会社から「広報兼チーフパーサー」として、破格の条件で復帰の要請が届く。
「マリさん、空に戻れるんだな。本当によかった」
哲郎は、リハビリで少しずつ動くようになった右手で、お祝いの小さなケーキを切りながら笑った。その笑顔には一点の曇りもなかった。
けれど、マリは知っていた。仕事の成功と引き換えに、二人の時間は削られ、かつて泥の中で寄り添ったあの濃密な静寂が失われつつあることを。
ある夜、哲郎が姿を消した。
かつての「別れ」のような絶望感はない。マリは直感で、彼がどこにいるか分かった。新しく借りた小さな作業場。そこには、一人で火を焚き、不自由な右手を左手で支えながら、必死にハンマーを振るう哲郎の姿があった。
「哲郎さん……」
「あ、マリさん。……見られちゃったな」
哲郎が打っていたのは、売り物ではない。それは、あのスクラップ工場で作った歪な「鉄の輪」を、もう一度溶かし、精錬し直したものだった。
「マリさん。あんたは、ダイヤモンドが似合う人だ。でも、三流の僕には、やっぱり鉄しか打てない」
哲郎は、真っ赤になった目で、手のひらの上の小さな銀色の輪を見つめた。
「これはね、特別な焼き入れをしたんだ。叩いても、踏んでも、何万回空を飛んでも、絶対に歪まない。……僕の心と同じです」
哲郎は膝をつき、震える手でその指輪を差し出した。
「空の上で、どんなに冷たい風に吹かれても、この鉄だけはあんたの体温を逃がさない。……マリさん。僕と、本当の夫婦になってくれませんか」
マリの目から、大粒の涙がこぼれ、熱い鉄の上に落ちて蒸発した。
「……バカね、哲郎さん。私、もうダイヤモンドなんて、どこにも欲しくないのに」
マリは指輪を受け取り、自らはめた。
不格好で、重い。けれど、これ以上に誇らしいジュエリーを、彼女は知らない。




