第六章 走れケイバン!
「逃げるぞ!」
と言ったわりには、スグルの足取りはひどく重かった。
山道を引きずるように歩くその足首は、さっき背負い投げを極めたときにひねったらしい。
「普段、なにもしてないからな……」
本人は情けなさそうにぼやく。
このままでは間に合わない。そう判断した瞬間、フランソワ――いや、俺の体は自然と腰を落とし、背中を差し出していた。
「えっ?」
スグルが目を丸くする。
ためらっている暇はない。俺は彼の腕を引き、背中に担ぎ上げた。
背の高いスグルの足が地面に触れそうになるが、意外にも軽い。年齢のせいで余計な肉が落ちているのだろう。
スグルは若い女に背負われる形になり、どうにも落ち着かない様子だ。背中でモゾモゾと距離を取ろうとするが、そんなことはお構いなしに、俺の体は山道を駆け下りていく。
『戦場では、負傷兵を抱えて走ることなど日常だった』
フランソワの記憶が、そう言っているようだった。
幸い、誰にも見られることなく、十分ほどで駐車場にたどり着いた。
問題はここからだ。 スグルは足をくじいて運転できない。苦痛に顔をゆがめながら助手席に乗り込むのを手伝い、俺は運転席へ。
だが俺は、つい数日前まで引きこもっていた十九歳の青年だ。車の運転などできるはずがない。
……はずだった。
気づけば、俺の手は勝手にスマートキーを押し、ギアをDに入れ、アクセルを踏んでいた。
「お、おい……運転できるのか?」
スグルが驚き半分、感心半分でこちらを見る。
「まあ……」
曖昧に答えながら、俺自身は自分の体の動きに驚いていた。
そうだ。思い出した。 さっき車に乗ったとき、フランソワはじっと前を見つめていた。 緊張しているのだと思っていたが、違う。 スグルの運転を観察し、覚えていたのだ。
戦場で培った“見て覚える”習慣が、ここで発動している。
車は滑らかに駐車場を出て、公道へ。スピードが上がる。
「うちに向かってくれ」
スグルが言う。
「わかった」
と言ったものの、道はわからない。
スグルがナビを操作し、自宅へのルートを設定する。
音声案内が流れ始めるが、フランソワはただ前へ進むだけ。 仕方なく、俺は案内のたびに声を出す。
「右だ」 「左だ」
その声に反応して体がハンドルを切る。 だが、ブレーキを踏まないので、車は斜めに滑り込むように曲がる。
「おい、減速しろ!」
スグルが怒鳴る。
「わかった!」
と言うものの、運転は乱暴そのものだ。
「いちいち声を出さないと曲がれないのか……」
スグルが呆れたようにため息をつく。
冷や汗が背中を伝う。 だが田舎道で交通量が少ないのが幸いし、なんとか屋敷に到着した。
車を停めた瞬間、俺は大きく息を吐いた。
スグルを助手席から降ろし、肩を貸して門をくぐる。
ようやく、ひとまずの安全圏に戻ってきたのだ。
「必要なものを詰めたら、すぐに出るから」
スグルを玄関の框にそっと下ろすと、彼は短くそう告げ、まるで戦場の塹壕に戻る兵士のように、這う姿勢のまま奥の部屋へ消えていった。
俺――いや、フランソワの身体に入っている“俺”は、祖母の姉ミツコの部屋へと導かれるように足を踏み入れた。
必要なもの、とは何だ。
俺の感覚では、食料や着替え、せいぜい懐中電灯だ。
だがフランソワの身体は、そんな俺の思考を置き去りにして、箪笥や押し入れを次々と開け、武器になりそうなものを探し始めていた。
「いや、必要なものって、そういう……」
心の中でツッコミを入れる暇もなく、豪奢な洋箪笥の奥から、刃先が湾曲した奇妙なナイフが現れた。中東の伝統武器のような、どこか儀式めいた雰囲気をまとっている。
ーーペルシャナイフだ。
諸刃のナイフで、内側の刃で掻っ切るように使うこともできる。
ゾゾゾッと背中に寒気が走る。
そのナイフの柄の真ん中に宝石がめり込ませてある。緑色の翡翠石のようだ。
“魔女の部屋”と言われても納得してしまいそうな代物だ。
フランソワはローブの裾をたくし上げ、短くしたベルトでそのナイフを太腿に固定した。動作に迷いがない。まるで何度も繰り返してきた儀式のようだ。
ライティングデスクには、小瓶が色とりどりに並んでいた。
フランソワは一本ずつ蓋を開け、匂いを確かめる。
俺にはただの薬品にしか見えないが、彼女は迷いなく五つを選び、箪笥から見つけた麻袋に滑り込ませた。
部屋を出ようとした瞬間、俺はフランソワの意思に逆らうように、ふと別の方向へ足を向けた。
ワタル――本来の俺の身体が寝かされている和室だ。
襖が開け放たれた部屋の中央に、俺の身体が横たわっている。
魂の抜けた殻のように静かで、薄い呼吸だけが生の証を示していた。
鼻先に手をかざす。
確かに息はある。心臓も動いている。
だが、このまま戻れなければ――。
胸の奥が冷たく締めつけられた。
「行くぞ」
玄関の方からスグルの声が響いた。
向かうと、彼は右足首をテーピングで固め、バックパックを背負って立っていた。
「テーピング、自分で?」
「柔道やってたからね。このくらいは朝飯前さ」
軽く笑ってみせるが、その目は状況を冷静に見据えている。
スグルが外へ歩き出すのを見送りつつ、フランソワの身体は庭の道具棚へ向かった。
芋掘り棒を取り出したかと思うと、柄の部分だけを外して持った。
五尺ほどの杖として使用するようだ。
“どこまで武器にこだわるんだよ……”
呆れながらも、妙に感心してしまう。
フランソワにとっては、今の日本も戦場の延長なのかもしれない。
外に出ると、スグルは軽バンの助手席に俺を座らせ、自分は運転席へ。
だが車は来た道へ戻らず、山の方へ向かっていった。
塀沿いに進むと、古びたシャッター付きの大きな小屋が現れた。
スグルがシャッターを上げると、錆びた金属音が山にこだました。
中は埃とオイルの匂いが混ざり合い、いかにも“昔の車庫”という雰囲気だ。
軽バンの隣には、ブルーシートに覆われた車が眠っている。
スグルがシートをめくると、埃が舞い上がり、その下から角ばった旧式のスカイラインが姿を現した。
「さっきの軽バンは監視カメラに映ってるかもしれない。こっちで行く」
「この車……」
と言いかけると、
「若いころ乗ってたんだ。四十年くらい前かな」
「動くんですか?」
「毎年整備に出してるからね」
スグルは慣れた手つきでボンネットを開け、バッテリーを交換し、ガソリンを注ぎ足した。
「運転は?」
「任せときな」
俺は麻袋と棒と脇差『サダムネ』を後部座席に放り込み、助手席へ乗り込む。
キーが数度回され、ついにエンジンが咆哮を上げた。
車体が震え、黒煙が排気管から噴き出す。
「煙、すごいですけど……」
「最初だけさ」
黒煙が収まると、スグルはスカイラインをゆっくりと車庫から出した。
古いエンジンの鼓動が、これから始まる“何か”を告げているように聞こえた。
第七章 ポータルとして に続く




