第三章 誓いと呪いと妄想と
目が覚めた瞬間、胸の奥に小さな違和感が残った。 静かすぎる。 まるで、世界が俺の目覚めを待っていたかのように。
上体を起こすと、体が異様に軽い。
昨夜、布団に入った途端に意識が落ち、夢も見ず、途中で一度も目覚めなかった。
――そんな「普通の眠り」が、今の俺にはむしろ不気味だった。
以前の俺は、深夜までゲームの光に照らされ、眠りは浅く、体は鉛のように重かった。
だが、今は違う。 フランソワの体は、眠るべき時に眠り、目覚めるべき時に迷いなく目を覚ます。 戦場で培われた習慣なのか、この田舎町の静けさが彼女の肉体にとっては「安全」なのか。
立ち上がると、体は羽のように軽く動いた。
祖母ミツコのパジャマが、まるで自分のために仕立てられたように馴染んでいる。
脱ぎ捨て、姿見の前に立つと、そこには若く、美しい女性の裸身が映っていた。
息を呑む。 完璧な肢体。 その美しさに、誇らしさすら覚えた瞬間――
胸の奥から、冷たい声が響いた。
「……いい加減にしろ」
叱責のような、怒りのような感情。 フランソワだ。 この肉体の奥に、彼女の意識は確かに息づいている。
俺は思考を手放し、体の主導権をフランソワに委ねた。
体は迷いなく下着を身につけ、紫のローブを羽織り、部屋を出た。
庭に面したガラス戸を開けると、朝の冷気が肌を刺す。
中庭へ降り立つと、地面に落ちていた一本の枝を拾い上げた。
その瞬間、空気が変わった。
枝を握る手に、微かな震えが走る。 重さ、長さ、重心――すべてを一瞬で測り取るように、指が自然と枝を回転させた。
そして、構えた。
腰が沈み、肩がわずかに開き、視線が一点に定まる。 まるで、枝が剣に変わったかのようだった。
次の瞬間、風が裂けた。
ヒュッ――!
枝が空を切る音が、庭に鋭く響く。
腕の動きは滑らかで、しかし獣のように素早い。 足は土を踏みしめ、体重移動は無駄がない。
木の幹に向けて一閃。
バンッ!
乾いた衝撃音が庭に弾け、木の皮がわずかに剥がれた。 その反動を利用して、体は自然と次の構えに移る。
ハッ―― ウッ――
腹の底から声が漏れ、呼吸と動きが完全に一致していく。
素振りは次第に速度を増し、枝の動きが薄い残像を描いた。
体が動くたび、胸の奥に熱が湧き上がる。 酔いそうなほどの快感。 この肉体は、動くことそのものを喜んでいる。
その時――
背後に気配が立った。
振り返らずとも分かる。 空気の密度が変わり、足音より先に存在が伝わってくるのだ。
スグルだ。
「朝から精が出るものだね」
振り返ると、縁側にスグルが立っていた。 俺――いや、フランソワの体は深く頭を下げた。
「おはようございます」
スグルは少し照れたように笑い、「朝食を作ったから来てくれるか」と言った。
キッチンには和食が並んでいた。
味噌汁の湯気、干物の香ばしさ、梅干しの赤。 フランス女性の姿でこれを食べるという事実が、どこか滑稽で、しかし妙にしっくりもくる。
だが、フランソワの体は箸を持ったまま固まっていた。 戸惑いが伝わってくる。
そこで俺は意識を前に出し、箸を操った。
口に運ぶと、驚くほど美味い。 そして、内側からも喜びが湧き上がる。
フランソワも満足しているのだ。
「一つ質問していいですか」
俺がそう言うと、スグルは顔を上げ、少し照れたように、「なに?」と応えた。
「お子さんは?」
想定外の質問であったらしく、スグルは目をパチパチしていたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。
父が早くに亡くなったこと。自分は幼すぎて、姉のミツコがこの家を継いだこと。
その姉は、自分が持っていない、ある資質を持っていたこと。
そのため、成人しても家を継がないと宣言したこと。 その代わり、母から「結婚しない」「子を作らない」と誓わされたこと。
そして――その誓いが、呪いのように彼の人生に影を落としたこと。
「……あの滝の部屋で誓ったんだ」
その言葉に、背筋が冷たくなる。
「幻を現実にする部屋だ。あそこで誓ったことは、生涯逃れられない。無視すれば……悲劇が起きる」
スグルの表情が苦く歪む。
その瞬間、俺の頭に映像が流れ込んだ。
若いスグルが、道路に座り込み、血の気のない女性の体を抱きしめている。 涙をこらえ、震える腕で必死に抱きしめている。
彼女は――スグルが初めて「結婚してもいい」と思った女性だった。
誓いを破った翌日に、彼女は事故で亡くなった。
呪いが発動したのだ。
映像が消えると、スグルがじっと俺を見ていた。
「……わかってしまったのだね。姉と同じだ」
俺は言葉を失ったまま、彼を見返す。
スグルは悲しげに微笑んだ。
「フランソワという白人女性になっても、その資質……俺にはなかった資質が、君にはあるということだ」
その言葉は、静かに、しかし確実に胸の奥へ沈んでいった。
……
「――あの滝の部屋はね、さっきも言ったけれど、どうやら“幻を現実に変える”力があるらしいんだよ」
廊下を歩きながら、スグルはぽつりと続けた。
「だから君……ワタル君がフランソワという女性になったのも、そのせいかもしれない。つまり、君のどこかに“戦場を駆ける女戦士になりたい”という願望があった、ということなのかな」
俺は返事ができなかった。
フランソワは俺が昔から妄想していたキャラクターだ。俺の作り上げたキャラなのだ――なんて説明しても、理解される気がしない。
滝の部屋は、そんな願望すら叶えてしまう場所だったのだろう。
もっとも、今は滝など一滴も流れていないのだが。役目は終えたと言われたし……。
玄関を抜け、敷石の続く長いアプローチを歩く。
俺の身体――いや、フランソワの身体は、周囲の日本庭園を興味深そうに眺めていた。 フランスの高級貴族の令嬢でも、こんな庭は初めてなのだろう。
門を出ると、昨日乗せられた白い軽バンがぽつんと停まっていた。 どうやら、この豪華な屋敷に車はこれしかないようだ。
スグルは運転席へ、俺は助手席へ乗り込む。
座る前に、ローブの腰巻に差していた脇差を抜き取った。
「ここで抜かないでくれよ」
スグルが苦笑まじりに言う。
「座れないので」
俺は淡々と答えた。
「うちは武家の出でね。昔は大小そろっていたんだが、戦中の供出で大刀、打刀はなくなってしまったよ」
そう言えば、応接間に入ったとき、フランソワは飾られていた脇差を一瞬で見つけた。
昨夜の俺は、暗さもあって気づかなかったのに、だ。
戦士の目は違う、ということか。
スグルさんは飾りから脇差を外し、俺に差し出した。
「僕が持っていても使い道はないけれど、君なら役に立つかもしれない」
俺は、というかフランソワの身体は迷いなくそれを受け取り、静かに、ためらいもなく真剣を抜き放った。
刀身は鈍く光っている。俺は背中が引きつるように感じているが、フランソワは冷静に刃先を見ている。切れるかどうか調べているのだろう。
それと、波紋を含め、その美しさに陶酔しているようだ。
「これが日本刀か……」と呟いている。
「その脇差は、相州、貞宗の作、だと伝わっているけどね……本当かどうか……」
と、ミツルは苦笑する。
それを理解したのかどうか、フランソワの身体は一回うなずいた。よく切れる刀だと理解したようだ。
フランソワはそれをローブの腰巻に差した。
その立ち姿を見て、スグルさんは「ほお……」と感心したように息を漏らした。
魔女のような格好の外国人が脇差を差している――俺の感覚では奇妙でしかないが、彼には妙にしっくりきたらしい。
第四章 モーゼの墓 に続く。




