第二章 ミツコとフランソア
スグルの落ち着いた表情を見たとき、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
まるで――俺が“現れる”ことを、どこかで予期していたような。
その思いが消えず、つい口を開いた。
「……私が、あの部屋に現れるのを知っていたのですか?」
スグルはすぐには答えなかった。
ただ、こちらの顔を静かに見つめている。
その沈黙は、拒絶でも困惑でもなく、何かを測るような、慎重な沈黙だった。
やがて彼はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にある古い本棚へ向かった。
ガラス扉を開けると、棚の奥から一冊のアルバムを取り出す。
その動作は、長いあいだ触れていなかった記憶を呼び起こすような、慎重さを帯びていた。
戻ってきたスグルは、アルバムを開き、あるページを俺に差し出した。
そこには、色あせた四つ切りの家族写真が貼られていた。
スタジオ撮影らしいが、どこか硬い空気が漂っている。
中央の白い椅子に座るのは、ヨーロッパの貴婦人を思わせるほど気品に満ちた日本人女性。
その周囲に、姉妹と少年が立っている。
写真を見た瞬間、息が詰まった。
椅子の背後に立つ二十代の女性――
フリルのついたドレスを着て、片手を婦人の肩に置いている。
その顔立ちが、フランソワに驚くほど似ていた。
右側には、若いころの祖母ケイコ。上品だが、姉の華やかさには遠く及ばない。
左側には、整った顔立ちの美少年――おそらくスグルだ。
となれば、フランソワそっくりの女性は、祖母の姉、ミツコ。
“魔女”と呼ばれた人だ。
スグルが静かに言った。
「……わかったかね」
その声は、長いあいだ胸にしまっていたものを、ようやく言葉にしたような響きだった。
「君が誰かは知らない。しかし、あの部屋に立つ君を見たとき、私は……姉が若い姿で戻ってきたのかと思った。だがすぐに違うと気づいた。君は白人だし、雰囲気もまるで違う。まあ……裸だったので、まともに見られなかったが……」
最後の言葉は、少し視線を落としてつぶやくようだった。
「それなら……私があそこに現れたことに、違和感はなかったのですか?」
「それは……」
スグルは言いかけて、ふと表情を変えた。
「その前に、君は誰なのか教えてほしい」
胸の奥がざわつく。
俺はワタルだ――だが、この体はフランソワ。
そのまま説明しても、理解されるとは思えない。
だから、俺は“フランソワ”の部分だけを語った。
「自分はフランソワ・ド・リシュリュー。ナポレオン軍の軽歩兵隊隊長で……エジプト遠征の際、ピラミッドの玄室に入ったとき、時空を越えてここへ来てしまった」
スグルはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……なるほど。殺気立った雰囲気があったのは、そのせいか」
だが、すぐに表情を引き締める。
「しかし、ならばなぜ私を知っている? なぜここにいることを不思議に思わない? それに……フランス人なのに日本語が流暢すぎる」
核心を突かれ、言葉が詰まる。
説明するには、俺の意識がワタルであることを明かさねばならない。
だが、それを言えば、すべてが混乱するかもしれない。
そこで、俺は逆に問い返した。
「……あなたこそ、俺の存在に、あまり違和感を抱いていないように見えます」
スグルは少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて静かに語り始めた。
四年前、姉の危篤でこの屋敷に戻ったこと。
姉の遺言で屋敷を継いだこと。
そして――代々この家が守ってきた“徴”、滝の部屋の結界を守る使命を、継がなくてよいと言われたこと。
「姉は臨終の間際に言った。『数年後、異変が起きる。それとともに滝の部屋の使命も終わる』と。……君が現れたとき、私はそれを思い出した。異変とは、これだったのだと」
その言葉は、淡々としているのに、どこか重かった。
俺は決意した。
もう隠すべきではない。
「スグルおじさん……実は俺は、ワタルなんです」
スグルの目が大きく見開かれた。
驚きと、理解しようとする意志が入り混じった表情だった。
「フランソワが滝の洞窟から現れたとき、俺は部屋の前にいて、彼女を見て……驚いて気を失いました。気がつくと、この体になっていたんです。フランソワの体験も、すべて理解できる。だから、体はフランソワでも、意識はワタルなんです」
スグルは長く息を吐いた。
「……受け入れるしかないのだね。君も、私も」
そして、静かに尋ねた。
「これから、どうするつもりだ」
「俺はワタルに戻らなければならない。フランソワも、ナポレオン軍へ戻らなければならない。そのために、行動を起こします」
「どうすれば戻れる?」
「……わかりません。ただ、行ってみたい場所があります。協力していただけませんか」
スグルはしばらく考え、うなずいた。
「わかった。だが、今日はもう遅い。休みなさい」
その言葉に従い、俺はミツコの部屋へ戻った。
廊下の灯りは弱く、壁に映る影が揺れている。
屋敷の静けさは深く、どこか遠くで水の音がかすかに響いていた。
布団に横たわると、天井の暗がりがゆっくりと形を変えるように見えた。
まるで、屋敷そのものが、これから起こることを知っているかのように。
――異変は、まだ始まったばかりだ。
第三章 誓いと呪いと妄想と に続く




