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第一章 成りきり

「さてどうする……」

 二度目の問いだ。


 俺の肉体は、格子戸の向こうで倒れている。

 こちらは、畳の冷たさが足裏に吸い付くように伝わり、空気は薄い膜のように肌にまとわりつく。

 その中心に立つのは、俺ではない“俺”。フランソワの肉体。

 若く、しなやかで、どこか光を帯びたような肢体が、裸のまま畳の上に佇んでいる。


 羞恥はほぼほぼない。男としての意識が、どこか遠くからこの肉体を観察している。

 美しい――ただ、それだけだ。

 自分のものとは思えないほど、完璧な造形をした身体。だが、その美しさが、逆に現実感を奪っていく。


 滝の音が消えた和室は、異様な静けさに満ちていた。

 奥の闇は洞窟のようにぽっかりと口を開け、そこから冷気が流れ込んでくる。


『あれは異界への通路だったのだ』

 今ならわかる。

 時間と空間の境界が、あの奥でひずんでいた。


 フランソワ・ド・ルシュリュー。ナポレオン軍の軽歩兵隊隊長。

 ピラミッドの玄室で時空の裂け目に呑まれ、ここ羽咋へと飛ばされた女。

 だが本来、彼女は俺――ワタルが夢想した“架空の存在”にすぎない。その虚構が現実化し、さらに俺の意識が入り込んでしまった。


 格子戸の向こうには、俺の本来の肉体が倒れている。牢のようなこの部屋の外で、意識を失ったまま。


『どうしてこうなった』

 問いは浮かぶが、答えはどこにもない。


 裸のまま、どうやってここから出るか考えていると、廊下の床板が軋んだ。

 その音は、静寂を破る刃のように鋭く響いた。

 誰かが近づいてくる。足音は重く、ためらいがちで、しかし確実にこちらへ向かっていた。

 祖母の弟、スグルだろう。俺が戻らないのを不審に思ったに違いない。


 格子戸の前に姿を現したスグルは、俺を見るなり凍りついた。驚愕というより、理解を拒むような表情。

 当然だ。牢の向こうに、全裸の異国の若い女が立っているのだから。


「スグルさん」

 声をかけると、彼の顔から血の気が引いた。その反応が、逆に現実味を帯びて胸に刺さる。


「驚かせてごめんなさい。後で説明します。まずはここを開けてほしい」

 スグルはようやく正気を取り戻し、倒れている俺の肉体に気づく。


「わ、ワタル君……!」

 彼が慌てて抱き起こすのを見ながら、俺は再び言った。


「ここを開けてください」

 閂はすぐに外れた。鍵はかかっていなかったらしい。


 スグルはなるべく俺を見ないようにしながら、ワタルの体を抱えて後ずさる。


「君は……誰なんだ」

 背を向けたままの問いに、俺は静かに答えた。


「私はフランソワ。洞窟の奥から来ました。だけど、どうしてここへ来たのか、自分でもわかりません」


 不思議なくらい流暢な日本語で俺は答えていた。もっとも、フランス語など話せないが……。

 スグルは、「そう……」と言ったなり、俺の肉体を抱きかかえたまま、前を歩いていく。彼なりに納得できる理由があるのだろう。


 長い廊下を進み、母屋へ入った。

 とにかく、服を着ないことには始まらないので、俺は、スグルと離れ、祖母ミツコの部屋に入った。

 

 畳を取っ払いラグを敷いた部屋には、古い香水の残り香、乾いた木の匂い、そして、どこか魔術めいた気配が未だ満ちている。


 俺の体は勝手に動き、箪笥を開け、下着を選び、ローブを羽織る。

 鏡の前に立つと、そこには魔女のように美しい女がいた。

 胸元は豊かに張り、背は高すぎず、気品と妖しさが同居している。

 公爵家の令嬢としての威厳が、姿勢の端々に滲んでいた。


 俺は、惚れ惚れとして姿見の中の姿に魅入っている。いつまでも見続けていたいと本気で思っている。

 なのだが、右手は自然と動き左腰に手をやった瞬間『剣がない』と呟いている。

 違和感が胸を刺した。

 うっとりしている暇はないのだ。

 胸の奥から、フランソワの声が囁く。

『戻らなければ』

 ソンエイも、マリーも、きっと探している。マリーなど、涙で頬を濡らしているだろう。

 

 アンドレは……。

 唐突に、彼の最期の姿が脳裏に浮かんだ。腕の中で息絶えた青年。その温もり、重さ、血の匂い。

 押し寄せる悲しみは、俺の意識では受け止めきれないほど激しかった。

 世界が崩れ落ちるような痛み。

 フランソワの感情が、俺の胸を締めつける。

 俺はその感情を必死に押しとどめた。


『アンドレのためにも、戻らなければ』

 気づけば、体は勝手に動き、応接間へ向かっていた。ミツルと話すために。


 ミツルはアンドレに似ている。年齢も国籍も違うのに、なぜか似ている。

 俺も初めて会ったとき、息を呑んだほどだ。


 回廊を進む途中、ふと開いた部屋が目に入る。布団の上に、俺の肉体――ワタルが寝かされていた。

 呼吸はある。生きている。だが、意識は戻らない。

 その姿は、まるで魂を抜かれた器のようだった。


 すべての謎を解かなければならない。そうしなければ、俺も、フランソワも、ワタルも、どこにも帰れない。


 応接間の扉を開けると、ミツルが豪奢な椅子に腰かけ、静かに待っていた。

 その眼差しは、何かを知っている者のそれだった。


    第二章 ミツコとフランソワ に続く


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