第12章 炎と煙に炙られて
「火事だー!」
耳を裂くような叫びが、闇の底からフランソワを引きずり上げた。
反射より早く、身体が布団を蹴り飛ばす。軽い。羽のように軽い。
フードを被り、杖を握る。指先が勝手に戦場の癖を思い出している。
カーテン越しでも炎の色が分かった。
赤ではない。もっと濁った、怒り狂う獣の色だ。
窓の隙間から煙が侵入し、部屋の空気を焦がしていく。
鼻腔に刺さる焦げ臭さ。肌にまとわりつく熱気。
――燃えている。間違いなく近い。
フランソワは廊下へ飛び出した。
身体は相変わらず異様なほど軽く、どの方向にも滑るように動ける。
隣室の襖を開けると、スグルが無防備に眠っていた。
「アンドレ!」
思わず、かつての戦友の名が口をつく。
その声にスグルが目を開けたが、まだ意識が追いついていない。
「スグルさん、火事です。しっかりして」
言葉が届いた瞬間、スグルは跳ね起き――そして脳貧血で崩れ落ちた。
「おい、おい……ここで倒れるか」
嘆きつつも、フランソワは素早く抱き起こす。
窓の外では炎が舌を伸ばし、部屋の中へ侵入しようとしていた。
煙が濃くなり、熱が肌を刺す。
「大丈夫だ」
スグルはふらつきながらも立ち上がり、二人で廊下へ出る。
そのとき、隣の部屋からタクロウが咳き込みながら這い出てきた。
フランソワは即座に抱き上げる。
「逃げるよ」
そう言うと、タクロウは「ちょっと待って」と部屋へ戻ろうとした。
「危ない!」
腕を掴んで止めると、タクロウは苦しげに言った。
「タブレットが……」
ピンときた。
――ノートパソコンだ。
部屋の中はすでに火が回り始めている。
フランソワは迷わず炎の中へ踏み込んだ。
枕元にパソコンが見える。
それを掴み、煙の渦を切り裂いて廊下へ戻る。
階段の片側はすでに火柱が立ち、階下は火の海。
降りる道はない。
「こっちだ!」
廊下の端でスグルが怒鳴った。
炎に追われるように、フランソワはタクロウの腕を引き、反対側の階段へ走る。
こちらはまだ火が回っていないが、煙が濃く、視界が霞む。
タクロウが庭に面した窓を開け、下を指差した。
中屋根が見える。そこへ降りろという合図だ。
三人は窓をまたぎ、中屋根へ飛び降りた。
中屋根から庭までは二メートルほど。
フランソワは杖を庭に投げ、ためらいなく飛び降り、ふわりと着地した。
痛みはない。すぐに建物から距離を取る。
スグルは中屋根にぶら下がり、そのまま地面へ降りた。
火に炙られた腕を振りながら「あちちちっ」と叫びつつ建物から離れる。
中屋根には、パソコンを抱えたタクロウが立ち尽くしていた。
「ぶら下がれ!」
スグルが怒鳴る。
「パソコンを!」
と、タクロウは言い、パソコンをこちらへ投げた。
フランソワはそれを確実に受け止める。
「ありがとう……」
煙に巻かれながらも、タクロウはフランソワに向かって頭をさげる。
「いいから、早く降りろ!」
と、スグルがふたたび怒鳴る。
タクロウは恐る恐る後ろ向きになり、足を屋根から降ろそうとするが、
火が屋根を舐めていて、なかなか決断できない。
そのとき――
二階の廊下の窓が、熱に耐えきれず破裂した。
破裂音に驚き、タクロウは後ろ向きのまま庭へ落下した。
スグルがすぐに走り、タクロウを抱きとめ、そのまま二人で倒れ込む。
タクロウはすぐに立ち上がり、フランソワのそばへ駆け寄った。
「パソコンは大丈夫?」
「おい、俺を心配しろよ……」
地面に倒れたままのスグルが愚痴る。
フランソワは思わず笑った。
その瞬間――
暗闇から影が飛び出し、フランソワに体当たりしてきた。
反射で身をひねり、ぎりぎりでかわす。
男はすぐに向き直り、再び突っ込んでくる。
腰のあたりに何かを抱えている。
暗いが、直感が告げた。
――匕首だ。
男は匕首を抱えたまま体当たりしてきたのだ。
危険すぎる。
フランソワは男の足を払う。
倒れ込む瞬間、首筋へ手套を叩き込む。
男はその場に沈んだ。
確認する暇もなく、別の男が鉄パイプを振り下ろしながら迫る。
フランソワは軽くかわし、背中へ蹴りを入れる。
男は呻き、パイプを落とし、背をのけ反らせた。
間髪を入れず、胸へ回し蹴り。
男は吹き飛び、太い木に激突して失神した。
空気が裂ける音。
フランソワは反射で身を引いた。
目の前を真剣が通り過ぎる。
一回転しながら相手の腕を取るが、相手は巧みに外す。
次の瞬間、横薙ぎ。
フランソワはのけ反ってかわす。
さらに下からの斬り上げ。
ぎりぎりで避ける。
――相当な使い手だ。
避けた勢いで背中が木に当たり、次の一撃は避けられないと悟った瞬間、
男が呻いた。
背中に何かが当たったのだ。
スグルが枝を投げつけたのだと分かった。
フランソワはその隙を逃さない。
正面蹴りを放つ。
男は瞬時に体を引き、大きなダメージにはならなかったが、距離が開いた。
フランソワは落ちていた杖を足で掬いあげ、手に収める。
くるくると回し、状態を確かめる。
男は八相に構え、鋭い袈裟懸けで迫る。
フランソワは避けない。
振り下ろす瞬間の“空白”を待っていた。
半身の体制から体を伸ばし、杖を相手に向かって突き出す。
杖の先端が、男の胸中央――段中へ突き刺さる。
鈍い音。
男の動きが止まり、そのまま倒れた。
周囲を見ると、スグルがナイフを持った男の手を押さえ込んでいた。
フランソワはその男の膝裏を杖でぶっ叩く。
膝が砕け、男が崩れた瞬間、スグルが背負い投げで地面へ叩きつける。
男は失神した。
スグルは手をパンパンとはたき、得意げな顔をした。
タクロウは――
なんとスマホで撮影していた。
今の格闘を動画に収めている。
自分の家が燃えているのに……
オタク気質だが、血筋だと妙に納得する。
箱形スカイラインを見るなり、スグルが「だめだ」と言った。
タイヤがパンクさせられているらしい。逃げられない。
「こっちだ」
タクロウが二人を導く。
道路と反対側へ進むと、ブロック塀の途中に鉄扉があり、タクロウが開けた。
抜けると駐車場。
端にベ〇ファイアが停まっている。
タクロウは車体下のシャーシに貼られたマグネットキーを取り、ロックを外した。
「タクロウ、お前の車?」
スグルが驚く。
「免許持っていた?」
「持ってない」
少しの間。
「じゃあ……」
「会社の」
「会社!」
「ネット上のね」
「ネット上……」
今度はフランソワが驚く。
「まあいいから。経費で落とせるから」
と、掌をひらひらさせた。
「だから3ナンバーか」
スグルが妙に納得した声を出す。
「運転は任せたよ」
タクロウはキーをスグルに渡した。
「君は後ろに乗って」
スグルに言われ、フランソワはサードシートへ。
杖を膝に置く。
タクロウはサイドドア横のシングルシートに座り、パソコンを膝に乗せる。
スグルがエンジンをかけ、駐車場を出る。
消防車がサイレンを鳴らしながら近づき、歩道には野次馬が溢れていた。
スグルは怪しまれぬようゆっくりと車を進め、喧騒から離れていった。
第13章 陽気な緊迫 に続く




