おわりに
蛇足であり、そもそも、最初から最後まで読んでいただけた人がいるのかどうかわからないのですが、こんな小説を作ってみた後書きをしておきます。
小学生並みの知能と知識をフル動員しながら、思いついたことをとりあえず全て注ぎ込んでいきました。自分で書きながら、恐らく無知を晒し、無恥を晒す読むに耐えないものになっているのだろうなと思います。設定に不備がないよう気をつけてはいますが、なにぶん私のスカスカの頭で作ったので、何かあればすみません。私は色々と間違えることが多いです。
※ドリームキャッチャーの有効範囲が途中で450mから何の説明もなく500mに変わっていた気がしますが、これはカシタのドリームキャッチャーが一朗のものより出力が大きいという設定があることを説明し忘れていました。
この世界観なら、もっと面白く作れる人がいるだろうなと思うのですが、結局困ればピカッという感じになってしまいました。無念です。
この小説はふざけて書きましたが、同時に真面目に書いています。この小説にはこの世界の取りうる最悪の姿と人の持ち得る最高の理念が同居していて、他にもくだらない悪質な冗談であることと真摯な未来への“倫理“を目指したものであること、誰もが最後の一人のために生きる社会契約に同意しているユートピアの悲劇であることと、ポストトゥルースと監視社会と環境破壊が徹底されたディストピアにおける喜劇であること、呪詛に満ちたアイロニーであることと“正常”とは言えないが一つの愛であること、相反する二つのものが同時に重なっている状態にあるので、その本質が何であるかは、観測者である読者の手によってどうぞ煮るなり焼くなりご自由に確定してください。
一応、不快に思う人がいるかもしれないなと思うところに触れておくと、この小説の結末、ゾンビの夢によるインフォデミックが起きることは、コロナ禍が起こる前から決まっていました。コロナ禍発生の後で付け加えた部分(国家によるワクチンの奪い合いの部分)もあるのですが、大筋は変わっておらず、何か意図があったわけではありません。また、アレクセイが多様な色の皮膚を纏っているのは、彼が語る言葉を、特定の人種でかつ今現在一般的だと私が思う“美の基準”に沿う人間に語らせたくはなかったための苦肉の策です。
色々とあるこの作品のテーマとして、情報とはなんだろうかという問題があります。それについていくらか本を読んで考えてきた結果の一部を小説の中の要素に詰め込みました。私なりの情報というものの答えは、いくつかの可能性を準備する中で、他のものを排除することで一つの選択肢が選ばれること、比較を行う構造に、その選択を発生させるものであるということです。それは、実体のある物体や抽象概念、言語、貨幣など、いかなる媒介物の性質にもその相互作用の“構造”、“関係”の本質は左右されない、その“比較を行う構造”と“選択を発生させる対象”という”関係”が見出されるところに、情報は存在する。逆にいえば、比較を行う構造にいかなる意味でも選択を起こさないものは、存在しているかどうか分からない、それは情報足り得ない。
そして、情報を処理するシステムを通してでしか世界を認識することのできないヒトには情報の外部は認識できない。その外部が仮にあるとしても、それは認識するという事象を超える。可能性からの選択という構造自体はとうの昔にシャノンが書いた論文にあることであり(ほぼそのまま)、記号や言語がそのような構造をとっているということはソシュールに言われることで(ほぼそのまま)、無論、認識論的な限界、もの自体はカントによってすでに述べられていることで、小説の最後の自由に関する文章などは柄谷行人のほぼコピペで、何も新しいものはありません。
仮に何か珍しいことがあるとすれば、それは私が情報という対象を哲学の言葉で語るのではなく、本気でグレゴリー・ベイトソンのように情報の言葉で哲学を再構築したいと考えたことは少し珍しいかもしれません(これもほぼそのままかもしれない)。上手くできているかは分かりませんが。
シャノンの定義では言葉の意味が捉えられないというのはよく聞きますが、私は個人的にはそれは言語に意味が存在するということを前提とすることが生む誤解のようにも思えます。私たちにはどこまでいっても比較と選択、その連鎖しかない。言語には意味というものが存在しない、もしくは意味というものがあるとしても、それはある時とない時とが存在する上で、そのどちらも比較を行う行為なのだとするならばシャノンの定義によって意味を捉えられないという問題は回避されたりしないかと思っています。
しかし、私は知識量が少ないので、これが正しいのか、同じことを言うような情報の哲学が既に存在するのか、それは知りません(ルチアーノ・フロリディという方が情報の哲学を構築しているのは知っています。ただ、その方の本は一冊読んだのですが私の考えとは少し違うように思います。しかし、全てその著作を読んだわけでもないので、それは分かりません。最近翻訳本が出たようなのでまた読んで確認してみます。)。
そして、実のところ、私は情報というものを問題とすることにどれほどの意義があるのだろうか、ということを少し疑っています。「ホンモノの世界とヒトの見る情報の世界は違う、しかし、その区別はつかない」情報を主題にすれば、そんなバカの一つ覚えのループにはまってしまうようにも思うので。
とはいえ、あらゆる時代を通じて「人がこの世界について誤りを犯す」という事象はその“差異”から生まれる生まれるのだからバカにできないかもしれない。しかし、何度人が「ホンモノの世界とヒトの見る情報の世界は違う、しかし、その区別はつかない」という同じ言葉を繰り返しても、世界についての誤りは消えはしない。同じ言葉を繰り返している私が言うのもなんですが、本当に世界から誤りをなくしたいなら、崇拝する同じ言葉を繰り返したり解釈したりするのではなく、世界を学び、比較に比較を重ねて言説を吟味すべきだ。
最近は情報よりも“選択”という事象そのものに興味を持ち始めました。また、ほかにもいくつか考えていることがあるので、それをまた、何か形にするかもしれません。これから自分がどうするのか、それは知らない、分からない。
さて、一応念のために言っておくと、この小説には信ずべきものはな一つもありません。全て憶測であり、実際に現実の世界に相対するためにはまず、知りたい各対象について信頼できる統計データを集めてすり合わせ、検証を重ねられた理論で見なければなりませんので、その点はご注意ください。これは無学な人間が適当に書いただけの駄文です。
それなのに、なぜこんなものを投稿したかといえば、ポストトゥルースという現象、環境問題と民主主義の危機に考えを巡らせる中で、正しいかどうかも分からない、車輪の再発明のようなことをしているかもしれない屁理屈と、参照によって説明しながら、環境問題に貢献するというアイデア(貢献できなくともGoogle検索を使うよりはマシかなと思います)を、思いついてしまった、そして、書いてしまったのだから、死蔵させるのでなく、なんらかの形で残しておこうと思った、何か後ろ髪を引かれるような思いに負けてしまった未熟さからしてしまったものです。小説を読む上で不快になった方たちがいれば、ここで謝罪しておきます。
最後に、この小説は前作『世界はお金であがなえない』の前日譚となっております。どのように繋がっているか、読めば直ぐにわかると思います。分かりづらいところだけ説明しておくと、最後に出てくる生物は、色々な生物から由来するものがくっついていますが、ヒトからは煩悩の数を受け継いでいます。興味のある方はご覧ください。
以上が後書きになります。
長々とくだらないことをすみませんでした。
ありがとうございました。
さようなら。




